マイスターのQ&A

ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗

:弓も古くなることによるメリットはあるのですか?

:楽器本体は、確かに古くなることによって木材の音響特性に変化が生じ、それは音にも現れます。もしも楽器の材料、製作精度が良く、そして長年にわたる楽器の取り扱い、そして楽器に施される修理が良い場合には、木材の音響特性の変化の効果が表面に現れて、楽器の性能は確かに向上するのです。
 さて、これが弓の場合にはどうでしょうか?このことについて考えるためには、楽器本体について考える時にそうしたように、「木材の性能」と「本体の機械的性能」の要素に分けて考えればよいのです。

弓材料性能の経年変化
 楽器本体の「木材の性能」とは響板の振動特性の事でした。しかし弓の場合には「曲げ強度」となります。弓の基本性能の大部分は、この「曲げ強度」が占めるからです。
 さて、弓の材料の曲げ強度が時間とともにどのように変化していくのか、私は詳しい研究をしたわけではありません。しかし、フェルナンブコのような堅い木でも、長年保管して置くことによって木材の体積が縮み、引き締まります。そしてこの事によってある程度、木材の経年変化による性能の変化の想像が付くのです。すなわち、僅かではありますが、乾燥の促進は木材の曲げ強度を高めると考えられます。すなわち、この要素だけを考えた場合には、弓も楽器と同じように古くなることによっての性能的メリットもあると考えられるのです。
 しかし注意してください。というのは、その「効果の大きさ」です。楽器本体の木材(松や楓)は弓の木材(フェルナンブコ)に比べてその比重は低く、また含水率も高いのです。従って、「経年変化による、乾燥による効果」が大きいのです。しかし弓材料の場合には、この効果に過度の期待は禁物です。
弓の機械的性能の経年変化
 古い弓がどの程度の効果があるのかのキーポイントとなるのはこの要素です。楽器本体についてそうだったように、弓の場合にも材料の質や製作精度、そしてその後のメンテナンスが弓の機械的性能(健康状態)を決定付けることは間違いありません。しかし、楽器本体と弓本体とで決定的に違っているのは、その構造の複雑度なのです。
 楽器本体は非常に複雑な構造をしています。しかし、これは逆の言い方をすると、複雑な分だけ修理も利きやすいのです。一方、弓は非常にシンプルです。竿とフロッシュ(毛箱)だけからできています。従って、長年使っているうちに弓竿にダメージが蓄積されると、それが致命傷となってしまうからです。
 具体的には、親指の当たる部分がえぐられてしまったり、または小指の乗る部分が磨耗して細くなってしまったり、または修理によって竿が細くなってしまっている古い弓も多く見かけます。当然の事ながら、一旦折れてしまった弓を修理した場合には、その折れた場所によっても異なってきますがダメージは大きいです。また長年の劣悪な毛替え作業によって、クサビ穴の形がおかしくなっている弓も多いのです。
 また、古い弓はフロッシュの損傷も激しいものです。このフロッシュは一見弓の性能には関係ないように思われるかもしれませんが、そうではありません。損傷の激しいフロッシュを新品に交換すれば問題ないのですが、「可能な限りオリジナルを使う」というのが修理の慣例になっているからです。そしてこのような傷んだフロッシュの弓の場合、毛替えの精度がどうしても低くなってしまうのです。
上記2要素の足し合わせ
 ここまで述べてきましたように、原理的には弓が古くなることによって性能は上がることもあります。しかしそれ以上に、弓の場合には、古くなることで「機械的性能」の劣化というデメリットの方が大きくなる可能性が高いのです。このようにして考えると、楽器本体以上に古い弓への信仰は捨てるべきでしょう。
古い弓の価格
 古い弓を注意すべきもう一つの要素は、その価格です。私が客観的に見て、同じ位の性能の新しい弓と古い弓の価格を見ると、古い弓の方が遙かに高いのです。なぜならば、楽器の場合と同様に、古い物が良いと思いこんでいる演奏者が多くいて、高くても売れるからなのです。
 また、新作弓には常識的な価格が決まっていますが(販売店によって若干の差はありますが、製作者の卸値が元になり、極端な販売価格の差はありません)、古い弓の場合には価格自体がありませんから、楽器店によっては弓の性能(刻印ではありません)とはかけ離れた価格設定になることが多いのです。そして、そのような「高価な弓」を無条件で、性能の良い物と疑わない演奏者が多いのも事実です。
全ての古い弓にメリットはないのか?
 最初にも述べましたように、非常に良質な弓で、そしてその後の長年に渡る取り扱い方、修理が完璧な場合には、メリットは確実にあります。例えば極端な例ですが、世界的なソリストからソリストへと譲り渡るような「銘弓」などは惚れ惚れとするような性能です。私はこの様な素晴らしい性能の古い弓について、否定的なことを思ったことはありません。ただし、この様な素晴らしい弓はその絶対数的にも、世界中の楽器店に置かれているものではありませんし、またアマチュア演奏者が趣味で購入できる価格でもないでしょう。

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