ヴァイオリン木材の多様性

     〜ヴァイオリンの音色を決定する要素とは

1998年12月4日 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗

 ヴァイオリンの音色を決める重要な要素の一つが「響板の厚み」であることは、今更言う必要もないでしょう。そしてその作業行程では、非常に高い技術、精度が要求されます。各製作者によって、それぞれの厚みパターンも若干異なり、それがそれぞれの製作者の楽器の特徴を出していることも事実です。また、ストラディヴァリウスなどの名器の厚みを測定して、それと同じ厚みの楽器を製作し、「ストラディヴァリウスの音!」とうたっている宣伝(?)もよく聞く話です。
 この様に、音響板の厚みが楽器の音色と微妙に関係していることだけは確かなのですが、それならば先のストラディヴァリウスのコピーのように、厚みが同じであれば、同じような音色になるのでしょうか?
 答えを先に述べますと、そのような単純なものではないということです。ヴァイオリンの音を決める要素は数多くあり、「厚み」はその重要な一要素でしかないということです。事実、木材の性質自体が多様性に富んでいるので、そのような木材の多様性の考察を無視して、「厚み」だけを考えることはナンセンスだからです。

一般的なヴァイオリン木材測定の限界
 ヴァイオリン木材の性質を測定するために大切なことは、木材を同じ大きさに切りそろえるということです。こうすることで質量、密度、曲げ強度等が測定できます。そしてこれらは、そのような測定機材のある研究室においては、特に難しいことではありません。
 しかし、重要なことは、この様にして測定できる木材は、ほんのわずかなサンプルでしかないということです。また、その木材質も、研究室で手に入れることができる程度の物となってしまうことでしょう。すなわち、測定データが、どうしても実際の製作木材のデータとかけ離れてしまいがちなのです。
 今回あげるデータは、私の師匠であるJ.カントゥーシャ氏の実際の製作楽器に利用している木材をそのまま計測しています。従って、木材の品質、乾燥の具合、サンプル数など、研究室では手に入れることのできない貴重なデータといっても過言ではないでしょう。
 以下のデータは、カントゥーシャ氏自身が測定し、蓄積してきたものを、私(佐々木朗)が集計してグラフにまとめたものです。
測定方法
 データは、表板と裏板の完成品(白木の状態)の質量とモード1、モード2を測定したものです。これらの3つの測定自体は何ら難しいところはありませんが、大切なのは各サンプルにおいて形と厚みが全く同じでなければ、それぞれのデータを比較することができないということです。
 今回述べるデータの貴重と言えるところは、カントゥーシャ氏の製作データだからなのです。彼の製作の特徴は、「同じ型(ヴァイオリンに関しては)」と「非常に精密な作り」です。厚みの精度も一般的なヴァイオリン製作とは一線を画します。というのは、一般的な製作方法では、厚みを測定するときには目印となる数十点の部分しか測定しません。従ってそれ以外の測定しない部分の厚みについては、各製作者の感だけで行っているのです。もちろん各製作者は自分自身の作業の癖があるので、測定していない部分でも、ある程度はそれぞれの板において同じ厚みとなっているものです。しかし、これを「計測」の対象として考えた場合には、厚みを測定していない板のデータの信頼性は低くなってしまいます。
 話は戻りますが、カントゥーシャ氏の製作においては、精密等厚線引き器具によって、等厚線を実際に描いていきます。そしてその等厚線がいつも同じ形になるように、細かな厚み出しを行うのです(精度的には数十ミクロン程度の作業をします)。この様にして出来上がった板の「厚み」は、各楽器によって全く同じといってもよい精度なのです(実際にはその後、各木材の特性に合わせて若干調整しますが)。
 この「精度」は形と隆起についても同じ事が言えます。すなわち、以下で述べるサンプルは、形と隆起、厚みが同じと考えることができるのです。すなわち、各データのバラツキをそのまま「木材の多様性」と考えることができるわけです。
木材の質量
 表板にはフィヒテ(ドイツ唐檜)、裏板には楓材が用いられています。測定木材はカントゥーシャ氏が実際にヴァイオリンとして実際に製作したものです。従って、決して突拍子もない種類の木材が使われているわけではないのです。それどころか、それぞれの製作者は自分の好みの産地の木材を使用しますから、これらのサンプルは「似たようなタイプ」と言ってもよいでしょう。具体的にはフィヒテはアルプス山麓、楓材はボスニア地方のものがほとんどです。

 上の図を見ると、一見同じに見える木材でもその質量は様々だということが分かります。これらのバラツキは数10%にもなります。分布の両極端の木材同士を見比べると、「これが本当に同じヴァイオリンになるのだろうか?」と思ってしまうほどです。もちろん、分布の両極端の木材は大げさな例ですが、ほとんど全ての木材において、その質量が異なるということはあたりまえのことなのです。
木材の低次モード
 測定しているのがモード1とモード2ですが、今回のレポートではこれらの内容に関しては一切触れないことにします。あくまでも周波数のバラツキのみについて考えます。

 グラフを見ると、質量の分布と同じような(正規分布のような)パターンで各モードにバラツキが見られます。これは即、木材の多様性と考えることができます。事実、同じ樹から採れた木材は年輪などから分かるのですが、その兄弟木材を同じように作っても、若干質量やモードに違いがあるくらいなのです。この様なことなどから、木材の非均一性は実感できるのです。まして隣に生えている樹木、または産地の異なる樹木においては、上グラフのように木材の性質にバラツキがあるのは当然のことと言えるでしょう。
性質が異なる木材で作った楽器からは、違った音が出るのか?
 これまでに、「木材の性質はとても複雑である」ということを述べました。すると、これらの木材で作った楽器の音は、やはりバラツキがあるのでしょうか?
 それがそうでもないのです。同じ製作理論で作った場合、上記の木材で作ったヴァイオリンの音色は、もちろん完全に同じなものは一つとしてありませんが、全て「カントゥーシャ氏のヴァイオリンのキャラクター」の範囲に収まります。このことは、上記のグラフの分布からすると想像できないかもしれません。この理由として考えられることを、以下にまとめてみましょう。
結論
 これまでに述べてきた木材の多様性と、それで作られた楽器の音を考察することで、ヴァイオリンの音色を決定づける要素がうっすらとですが見えてきます。それをいくつか述べてみましょう。
もう少し高いモードが重要?
 これまでのヴァイオリンの音響研究では低次モード(モード1〜5位)が盛んに研究されてきました。これにはいくつかの理由がありますが、その中でも「測定しやすいモード」、「操作しやすいモード」だからという理由は大きいと思います。カントゥーシャ氏がモード1とモード2を測定していたのもこの様な理由からです。
 しかし私は、ヴァイオリンの音色に影響を与える重要な要素は、もっと高い周波数帯にあるのではないかと考えています。というのは、表板や裏板は箱になった時点で周辺部分が束縛され、低いモードでは振動できなくなってしまいます。また擦弦楽器という理由から、ヴァイオリンの発音自体が太鼓のような低次のモードで発音するのではなく、更に高い周波数帯を重要な音色成分としているからです。
 すなわち、今回のデータである「質量」と「低次モード」が示す木材の性質とは異なった部分に、ヴァイオリンの音色に大きく影響する部分が隠されているという考え方も成り立つのではないでしょうか。この事は、これまでに私自身が行ってきた音響実験、技術的な経験からも推測していることなのです。
音色は表板と裏板だけでは決まらない
 完成したヴァイオリンのほんの些細な部品を交換しただけで(例えばアジャスター等)、楽器の音はかなり変化します。この事から考えると、横板、ネックなどの構造(強度)がヴァイオリンの音色に与える影響は非常に大きいと思います。事実、響板(表板と裏板)は箱になった段階で、単体では振動しません。横板、ネックを含む総合体として振動します。従って、表板と裏板だけでヴァイオリンの音色について結論づけること自体に初めから無理があるのかもしれません。
 グラフに見られるような木材の特性にバラツキを持つ表板や裏板でも、数多くの構成部品を総合した場合には、そのバラツキは互いに打ち消しあって一つの方向に収束していくのかもしれません。そしてその方向が「製作者のキャラクター」となるのでしょう。その位、響板(表板と裏板)以外の部品も重要と考えるべきです。
 しかし、表板や裏板の性質が重要でないと言っているわけではありません。それらは「最も重要な要素の一つ」であることは間違いありません。しかし、これまでのような「響板の性質だけでヴァイオリンを説明する」という考えには無理があると思うのです。それは今回の木材特性のバラツキと、それによって出来上がったヴァイオリンの音色の考察から、ある程度は推測できることと思います。