弓の性能(圧力)と音量 〜 ヴァイオリンの音響研究の難しさ

2006.5.6 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗

 私はこれまでにあちこちで、「弓の真の性能の重要性」を述べてきました。マイスターのQ&Aの各所にもそれらは書いているつもりです。弓に関して次のようなことを書いてきました。

マイスターのQ&A中の弓に関する記述('06.5現在)
6.丸弓と角弓の違いは?どちらが良い弓なのでしょうか?
8.弓の毛のメンテナンス方法を教えてください。
11.高い弓と安い弓では、何が違うのでしょうか?
18.毛替えの難しさ
23.松ヤニについて教えてください。
32.カーボンファイバー製の弓の性能は、どうですか?
33.弓の巻線には色々な種類があるようですが、どれがよいのですか?
35.弓の値段は、楽器の何分の一がよいのですか?
36.コントラバスの弓で、黒い毛を張ったものを目にしますが、これは普通の弓と違うのですか?
52.弓には金や銀部品を使ったものがあり、それらで値段も違いますが、性能に違いはあるのですか?
53.楽器店によって毛替えの毛量に差がありますが、これによってどのような差が現れますか?
56.弓のグレードは「*」印の数で決まっているのですか?
74.弓チップの先端が欠けてしまいましたが、このまま使ってもよいのですか?
75.「毛替え時」はどうやって判断するのですか?
76.年に一回毛替えをする場合には、どの時期が最適ですか?
77.ケースの弓を固定するネジが緩んでしまって困っています。
89.毛替え後、松ヤニの塗りやすい毛と塗りにくい毛がありますが、この違いは何ですか?
90.折れた弓は修理可能ですか?
92.弓の材料について教えてください。
94.弓チップは象牙製の方が性能が高いのですか?
104.弓も古くなることによるメリットはあるのですか?
118.チェロ弓にチューブを付けている人がいますが、付けた方がよいのですか?
133.弓のフロッシュの金属が錆びて困ります。
137.間違った薬品使用によるフロッシュ金属の腐食
139.毛替えなどの修理代金に基準価格はあるのですか?
141.弓ネジの製作方法に見る、弓のグレード
144.弓の選び方を教えて下さい。
151.弓の毛がパンパンに張って緩まなくなってしまいます。
152.弓の毛替え時に、「半月リング」が割れていると指摘されました。こうなるとどのような影響があるのでしょうか?
167.ラーセンの松ヤニについて
169.良質な弓を購入することの勧め〜弓の選び方の実際 (2002年弦楽器フェアの時に配ったチラシ。PDFファイル)
171.弓のフロッシュ雄ネジ(8角ネジ)を他の弓のものと交換しても良いですか?
178.毛替えの良し悪しを見分けるにはどうしたらよいですか?
185.弓は力を抜いて弾くべきなのですか?それとも圧力をかけて弾くべきなのですか?

 なぜヴァイオリン製作者である私が楽器本体ではなく、弓に関してこのように時間を割いて説明しているかというと、良い弓無しに楽器の本質は判らないからなのです。もっと具体的に言えば、良い弓無しには原理的に演奏(発音)できないものが存在し、そのような条件下で良い楽器についてをいくら語っても無駄なのです。
 私は楽器製作者です。本来ならば「良い楽器とは・・・」と真っ先に言いたいところなのですが、そのためにも演奏の基本的な事柄、例えば「良い弓の本質」、「楽器の正しい持ち方と、効率の良い摩擦力」、等々の話になってしまうのです。私が時々述べている言葉ですが、極論になりますが、「楽器の良し悪しとは良い音が出るかそうでないか」なのですが、「弓の良し悪しとは、演奏可能か不可能か」という根本的問題なのです。

弓竿の腰の強さと楽器の音
 マイスターのQ&A(例えばNo.169、185、144など)を読んでいただければ判っていただけると思うのですが、真の意味での良い性能の弓とは「圧力のかけられる弓」です。すなわちペコペコした弓ではいくらバランスがしっくりしていても、原理的に演奏不可能な部分が多く存在するのです。
 例えば腰の強い弓(強ければ強いほど良いと言っているのではありません)は大きな圧力で演奏することができます。すなわち大きな音で弾くことができるのです。こう言うと、ほとんどの方はf〜fffの事を考えることでしょう。それは正しいのですが、実はフォルテ=ピアノでもあるのです。
 私は機械で音響測定も行いますので実感するのですが、人間の耳というのは絶対音量とか絶対音色に関してはものすごく鈍感なのです。例えば、ガンバの演奏会を聴きに行くと、最初はその音の小ささにビックリするのですが、直に慣れてしまいます。ようするにppの音ばかり聴いていても、ppには聞こえないのです。またはその反対に、騒音の中で、騒音を感じにくくなることもあります。
 一方、人間の耳は相対的な音量とか音色とかに関しては機械など相手にならないくらい敏感です。すなわち、ワンフレーズ、または一曲の中にfffが有ることによって、それ以外の箇所に余裕とか、豊かさとかが生まれるのです。これがすなわち「表現力」なのです(音色の変化に関しては今回は書きません)。
圧力と音量 〜ヴァイオリンの研究の難しさ
 上の説明で、多くの方は納得していただけるのです。しかし物理学に詳しい方の中には??と思う方もいらっしゃると思います。少し前にも質問というか指摘をされたことがあります。それは「弓のスピードは音量に関係していても、弓の圧力で音量に変化はないのでは?」という内容でした。
 確かに物理学の教科書的には仰るとおりのなのですが、そうでないところがヴァイオリンの音響研究の難しいところなのです。ヴァイオリン族が他の楽器と決定的に違っているところは、発音の仕組みが弦の調和振動ではなくて強制振動であるという事です。すなわち、弦の振動方法が楽器側のレスポンスによって刻々と変化するのです。楽器側の発音によって、演奏者が無意識のうちに奏法を変化させるのです。ヴァイオリンを弾けない研究者は、この点が全く判っておらず、私から言わせればナンセンスなヴァイオリン研究を行っているのです。・・・いや、研究することは素晴らしいことです。しかしナンセンスな(浅はかな)結論を出してしまう傾向にあるのです。
 さて話が戻りますが、弓竿の腰が強い弓だと、楽器の駒寄りを弾くことが可能になるのです。演奏者は楽器の発音の状態によって、弓のスピードだけでなく弦上の弾く位置も微妙に、それも連続的に変化させます。これが「演奏」なのです。これは慣れた演奏者ならばアマチュアでも無意識にできることです。
 弓の性能と音色との関連はまだ他にもあります。例えば、楽器には発音の詰まるポイント(そのもっとも有名なものはチェロのヴォルフ音です)が無数にあります。性能の低い弓だとこのモードに弦の摩擦力が負けてしまい、弓がはじかれてしまうのです。しかし性能の高い弓の場合、強制的(無意識にそうしていることも多いです)に圧力をかけることで、大きな摩擦力を生み、その共鳴モードを押さえ込むことができるのです。

 このように弓の性能で楽器の音色はまるで違ってきます。すなわち、楽器だけを研究しても真の意味でのヴァイオリン族の研究は不可能なのです。もちろん楽器のみの研究して悪いことはありません。しかしそれで「ヴァイオリンの音の秘密を解明した」などという結論は出さないで欲しいのです。原理的に無理がありますから。素人(音響研究において)の私が偉そうなことを言って申し訳ないのですが、私はそのくらい真剣に、そして大切に、「弦楽器の音」について追求しています。