ヴァイオリン製作者が音響研究をする意味

2006.7.10 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗

ヴァイオリン製作と音響研究
 私は細々とではありますが、ヴァイオリンの音響研究を行っています。しかし、ヴァイオリンの音響研究がヴァイオリン製作者にとって、必ずしも必要というわけではありません。物理や科学が苦手の「文系」の人でも、きちんとした技術を修得していれば、高度なヴァイオリン製作は可能です。私はたまたま科学的な考え方に興味がありますので、その延長線上で音響研究も行っています。しかしそれが製作の秘密というわけではありません。
 余談になりますが、同様のことは「演奏」にも当てはまります。仮に弦楽器の演奏が全くできなくても、ヴァイオリン製作は可能です。しかし当然のことながら、弾けた方がより可能性が高まりますし、顧客にも信用される事が多いです。しかしこの事も、製作において絶対条件というわけでもないのです。
音響研究の意味
 私が音響研究を行っているのは、ヴァイオリンの秘密を解明しようとしているのではありません。というのは、私はヴァイオリンの事について、中の中まで知っているからこそ、科学でヴァイオリンの秘密が割り切って説明できないというのは既に知っているのです。従って、そのようなことを求めているのではありません。
 それでは何のために行っているかというと、「記憶」と「モデル化」、そして「推論」のためです。
「記憶」するためには
 例えばある楽器の音色を思い浮かべたり、または表現しようとしてみてください。これまでの古くからの様々な著書にも色々書かれていますが、「透き通るような・・」とか「輝くような・・」とか「張りのある・・」、「甲高い・・」、「優しく・・」とか数限りない言葉があります。同様のことは色についても言えます。例えばニスの色について表現しようとすると、「炎のような・・」、「黄金色の・・」とか、色の表現も数えられないほどあります。このような表現方法、すなわち「言葉」は雰囲気を伝えたり、想像力をかき立てるのには便利なのですが、しかし言葉では記憶できないのです。もちろん言葉自体は記憶も記録もできるのですが、長年の間にその内容はぼかされてしまいます。
 さてどうすれば音色や色を「記憶」できるかというと、周波数スペクトラムのグラフを作り、そのグラフを視覚イメージとして頭に記憶すればよいのです。人間は見えない感覚よりも視覚情報の方を脳に記憶しやすいからです。もちろん、楽器のスペクトラム表示がその楽器の全特徴を表しているというわけではありませんが、しかしそれがほんの一部であったとしても、そのグラフを頭の中にインプットすることは確実な「記憶」なのです。
 例えば私の場合、全ての音を測定器で測定してグラフ化して記憶しているわけではありません。しかし、何度かそのような操作をしているうちに、測定しなくてもある程度頭の中に「スペクトラムグラフ」がイメージできるのです。そしてそのグラフを記憶するわけです(注1)。これは何も神業的な話ではなく、理系の考え方の人やオーディオマニアの方にとっては特に珍しい考え方ではありません。

注1:正確に言うと、グラフのみを記憶しているのではなくて、実際の目に見えない感覚(音色、振動、レスポンス・・・)とグラフの視覚的な情報を関連づけて記憶し、その感覚を少しでも忘れないようにするという行為をしています。

「記憶」から「比較」、「モデル化」、さらに「推測と応用」
 さて、このように頭の中にグラフを記憶することで何ができるかというと、まずは「比較」ができるようになります。そしてその「比較」をいくつも行うことで、単純な「モデル化」が可能になります。そしてその延長として「推測と応用」が可能になります。
 これらの内容は何も難しい数式で表されなければならないことはありません。我々は科学者ではないからです。現実にピタリと当てはまれば、「ブラックボックス」でもかまわないわけです。事実、私は現実の新作製作や楽器の調整において、このような過程をふまえて実践しています。すると確実に応用が利きますし、それ以前にある程度の推測さえも可能となるのです。
まとめ
 ヴァイオリン製作者にもさまざまなタイプがいます。そのどれが正しいとか、またはどのタイプが最善とかを言うつもりはありません。一つだけ言うとしたら、私が行っている音響実験的な試行錯誤は「ヴァイオリンの仕組みを解明する」ということに関してはほど遠いとしても、実際のヴァイオリン製作・調整技術においては実に現実的・実践的な効果を発揮します。ある意味、私の技術の本質の半分は、この「考え方」かもしれません。