アマティ一家

Ernest N. Doring著

翻訳 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗

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また、この翻訳の全文・一部分を、個人的研究以外に利用する事を固く禁じます。

 この翻訳は未完成です。続きの翻訳が完成次第、書き加えたいと思っています。著書の著作権を尊重する意味で、図版はあえて掲載しません。

第1部

 私が今回取りあげるのは、それは歴史的な資料ではありません。ヴァイオリン製作における不滅の口碑として名高い、ある製作一家について、私の知るところを書いた概要です。
 私はここで、一般的なオールド・ヴァイオリンに関する参考著書に多く見られるような記述の反復は避けるつもりです。出生、死に関するような、教科書に載っているような情報やデータは余計でしょう。
 アマティには、他のどの製作者も達し得ない、特別で唯一無二の地位を与えるにふさわしいです。このような話をする場合には、歴史的で明眉なことこそが重要であり、空想的な内容でヴァイオリン製作工芸の話しを書くべきではありません。しかし、アマティ無しに、ストラディヴァリやグァルネリや、またはクレモナの偉大な製作者達は、存在しなかったのかもしれません。技術とは単独には存在しません。偉大な貢献の積み重ねによって引き継がれるその連続性こそが重要なのです。彼らは、その知識や修行によって得た技術を、多くの他の製作者達に伝え合い、そしてストラディヴァリやグァルネリを頂点とする黄金時代を築いたのです。
 しかし次の質問は、活発な議論を突然曇らせてしまいます。「だれが最初に、本当のヴァイオリンの形を発明したのでしょうか?」そして、この難問は、多くのヴァイオリン愛好家や熱心な読者にとっての大きな関心の的でしょう。これまでにも膨大な理論、図、想像、伝聞などが入り乱れて書かれてきました。従って、我々の前には、膨大な間違った情報、相反する情報が存在するのです。
 たぶん最初の研究記述は、Count Cozio di Salabueによるものです。これについては、このジャーナルの第21号と22号にて掲載されています。それ以来、それは多くの著者が基本資料としてとして引用してきました。しかし、その情報が、より豊富でなかったことは後悔されるところです。彼のアマティに関する言葉は、あまりにも僅かすぎたのです。
 ヴァイオリン世界の文献は、ヒルの出版したストラディヴァリとグァルネリ一家に関する著書によって、大きく潤されました。そしてアマティ一家についても、そこには書き加えられていました。もしも実存する手書きの資料を元とした研究ならば、それは妥当であり、信用に値するものです。そして、そのような仕事が公共利用可能な状態で発表されていたならば、確実に、ヴァイオリン全体世界は、永遠にそれらに感謝していたことでしょう。
 アンドレア・アマティの出生の年ははっきりとは知られていません。数人の著者が特定の期日について言及していますが、適当と思われる期日はハートとヒルのように16世紀初頭、たぶん1520年頃にあったとここでは考えてみましょう。
 多くの人は、ジョージ・デュボールグが1850年に発刊した、"The Violin , being an Account of that Leading Instrument"を読みます。その中の第9章にはこのように書かれています。「ヴァイオリンにおける・・・珍しく、細かな細工(1817年にオットーによってドイツ語で書かれました)。ヴァイオリンについて、歴史的事実をもとにした上で考察も含めて、この場で発表することは、とてもやりがいのあることです。クレモナ製楽器(ヴァイオリン崇拝者への最も好きな単語)に関して、それらの中の最も古いものはヒエロニムス・アマティ(17世紀の初め)によって作られた楽器です。次に、その世紀中期の、アントニオ・アマティのものが来ます。そして、最後にニコロ・アマティに至るのです」。しかし、それらに関しての情報は明らかに貧弱すぎます。彼は、アンドレアの説明を完全に省略してしまっただけではなく、アントニオとヒエロニムスが一緒に働いたということさえも知りませんでした。今日存在する記述の多くが、そのような無責任な誤伝を元として書かれているのです。彼が参照するオットーの仕事の記事は、また別な側面から光を当て、ある事柄を提示しています。「私は以下の製作者による、およそ30本のクレモナ製ヴァイオリンを持っていました。最も古いものは17世紀の初めのJerome・アマティによるものです。・・・」。彼は、実際に彼が取り扱った楽器について、自分の考えをまとめたのです。
 一般に、ヴァイオリンはガスパロ・ダ・サロによってブレシアで作られ、発達したとされています。また一方、イタリア以外の国の歴史家は、それ以外の場所にその起源を見いだすことに努力しました。一般的には、ヴァイオリンの発祥の時期は、16世紀の初期から半ばにかけての期間と考えられています。しかし一方で、様々な相反する考えの出版物が存在しているのも事実です。
 聖H.R.Haweisによって書かれ、多くの人々に親しまれた著書「音楽と道徳」の中で、彼は、ヴァイオリンの発祥地を、イタリアではなくその他の国であるとする意見を尊重していました。しかしその中にはこう書かれています。「ヴァイオリンというものがフランスかイタリアの生まれであるか否かに関係なく、それはイタリアで使用され、発展したのです。もしもそれがフランスが起源ならば、それは早い時期にその故国から他の土地へと移り、そしてイタリアの土地で栄えたのです。ブレシアには大きなリュート学校が1450年くらいの初期からありました。そしてそれよりもやや遅れて、大量のヴィオールがベニス、ボローニャおよびモントゥアで作られたのです。そして、たぶん、ガスパロ・ダ・サロの工房において、最初のイタリア製のヴァイオリンが作られたのです。彼は、他の多くのヴァイオリン製作者のように長生きして、50年間に渡って良い仕事し、そしてこのブレシアの町で死んでいったのです。彼のヴァイオリンには、1566年の日付のものと、1613年の日付が入ったものがあります。」
 さらに続けて、彼は書いています。「次に我々は、クレモナ派の創設者である、かの有名なアンドレア・アマティにたどり着きます。いつ、どこで彼が生まれたのか、そして誰が彼の師匠だったのか、はっきりしたことは分かりません。確かなことは、彼が16世紀の前半(!)に働いていたということです。一般には、アンドレアは、古いブレシア派であるマッジーニのもとで勉強した後に、クレモナで彼自身の工房を開業したと言われています」。しかし、マッジーニは16世紀の後半(1581年)になるまでは、まだ生まれていないのです。従って、そのことを加味した上で考察すると、これらの2人の製作者を関連させることはできないのです。"My Musical Life,"の中にはこう書かれています。「・・・アマティの家はありました。そこで、製作学校の創設者であるアンドレアは、1550年、ブレシアのガスパロやマッジーニのコピーを作っていました」。ガスパロは1542年に生まれ、マッジーニは1581年までは生まれていません。すると、アンドレア・アマティが彼の製作の手本をガスパロや、マッジーニから受けたと考えることには困難があります。他の著書の中にも、多くの矛盾した内容が見受けられます。アンドレアがガスパロと同時代か、またはそれ以前に、楽器(おそらくヴァイオリンも)を作っていたということは、明白に思えます。事実、アンドレア・アマティによって作られた1546年の日付を持っている3弦楽器(後に小型の4弦楽器に改良された)の記録があります。
 フェティスがアンドレア・アマティの製作教育について書いた"Anthony Stradivari"から、幾つか引用してみましょう。この著書は、最初に1856年、フランスで出版され、1864年に英語に翻訳されたものです。「アンドレアの師匠はだれでしょうか?どこで、彼は彼の注目に値する技能を修得したのでしょうか?我々は、知りません。
 1803年にCockatrixによって発行された"Correspondence of Professors and Amateurs of Music,"に、クレモナで彼自身の工房を設立する前に、アンドレア・アマティがブレシアで見習いとして働いたことが書かれています。それらの2つの町はロンバルディ地方の、互い近くに位置しているので、それは不可能なことではありません。しかし、明白な権威の証拠書類によって立証されないかぎり、この種類の主張にはどんな値もないのです。アンドレア・アマティの楽器は、特徴的な形をもっています(その形は、古いブレシア派のものとは明確に違っています)」。
 アンドレア・アマティによって作られた装飾楽器の素晴らしい図版が、一例としてハンマの著書に掲載されています。その楽器は1600年製で、その隆起は、一般に理解されるように平たんではないが、しかし決して「高い」とは書いていないことは特に注目に値します。クラスとして相応しくなくアマティ楽器に対して、ある偏見を引き起こす誤称。24本のヴァイオリン、12本の大型、12本の小型、6本のテーナー、8本のバスが、シャルルIX世のために作られていることは知られています。それらの楽器はヴェルサイユの王立協会に保存されていたのですが、1790年の10月革命の時に紛失しました。後年、そのうちの2つだけが見つかったと言われています。これらの楽器は、先に述べたヴァイオリンと同様の絵で装飾されていました。Olga Racsterによる興味深い著書、"Chats on Big and Little Fiddles"には、アンドレア・アマティによる素晴らしい1572年製の"The King"装飾チェロの細かい図が掲載されています。
 我々は、 ここにアンドレアの有名な孫息子、 ニコロの例を例証する2セットの図版を批評するためにアマティ一家の話しに出発します。
 ニコロは、1630年の彼の父の惨死の後(彼は叔父に育てられました)、たぶん手伝いとしてではなく働いていました。ヒルの言葉を利用すると、「そのマイスターは手助け無しに独立しました。そして、楽器の需要は大きくなっていきました。ヴァイオリン製作の拡大に伴って、彼は必然的にルジェリ、グァルネリ、およびストラディヴァリらの弟子達をとるようになったのです」。たぶん最初に、まだ若い少年のルジェリ・フランチェスコが、そして次にやはり少年のアンドレア・グァルネリが来ました。おそらく、彼が12歳にすぎなかったときに製作した1638年製のヴァイオリンが、ヒルの手記の21章に記録されています。それには、例えば、1663年製のニコロ・アマティによって作られた裏板の珍しい図版も載っています。そこにはまたこれとは別に、強い個性を持っているあるアマティ作のヴァイオリンも見ることができます。それはかつて著名なコレクタ、ジョン・P.ウォーターのコレクションでした。彼は1895年にジョージ・ハートからそれを譲り受け、ひところ、それはウィルトン在住のアールの所有物でした。後になって、ニューヨークの収集家のWatersへ渡り、最後にはミッド・ウエスタン市の音楽支援者で熱心な愛好家のJohn Friedrich & Broを通して、Henry P.Wilsonの所有物となったのです。
 1659年製のその楽器は、ロンドンのハートがずっと所有していた物です。それは図版が示すように、素晴らしい木材を使用し、光沢がある金茶色の豊かなオリジナルのワニスで覆われています。それは現在、シカゴのWilliam Lewis & Sonのコレクションに入っています。



第2部

 前の章の初めの所見にみられるように、この調査は、これまでに記録されたデータの再調査により行います。
 第1部では、1930年頃にシュトュットガルトのハンマと社によって発表された"Meisterwerke Italienischer Geigenbaukunst"(通常、単に「ハンマ・ブック」と呼ばれます)に掲載されている図版を考察しました。その図のヴァイオリンは、1600年のアンドレア・アマティ作と示されています。一世紀前の様々な著者達は、彼の死亡した年を1580年〜1581年の間としてしています。そして、出生の日付については、なにも確実な年は提供されていません。ハートによる、ヴァイオリンに関する有名な研究著書の中には、「…我々にはアンドレアが1611年まで生きた証拠があります」と書かれています。そしてこの日付は、その後の多くの著者によって繰り返され用いられてきました。その上、ハンマやvon Lutgendorffおよび他の者達は、アンドレアの生没年を1535年〜1611年として示しました。しかし、その「1535年」とは、彼の仕事人生の開始時期という意味だったのが誤解されてしまったのでしょう。
 彼によって作られたと思われるある楽器で、僅かではありますが、関心あるデータがあります。様々な記述によると、前記のそのヴァイオリンは、フランスのシャルルIX世王の宮廷音楽家が使用していたものの1つであり、王の階級章とその銘“Pietate et Justicia"が裏板に施されている装飾楽器です。横板も絵で飾られています。長年に渡る手の摩擦に耐えて、“UNICO"と“PROPUGNO"という文字も残っています;
反対側の上にあった文字は、もはや読みやすくはありません。アンドレア・アマティがその君主のために一組の楽器を製作したということは、ほぼ間違いないことです。そしてそれらの内のいくつかは処分されたり、または1790年の革命にまぎれて王立教会より略奪されたのかもしれません。その時にどのようなことが起こったのか、我々に知る由はありません。しかし私は、それらが破壊されたのではなく、どこか遠く安全な場所に保管されて保存されたと考えるのが正しく思えます。ヴァイオリン奏者であり作曲家のJean Baptiste Cartier(ヴィオッティの生徒でMarie Antoinetteの伴奏者、そしてたぶん王立楽器に関係していた)は、何年も後、2つのヴァイオリンの修復作業に関わりました。そしてそのうちの1本が、例の楽器かどうかを議論したのです。
 ヘロン・アレンの著書、"Violin Making, as it was, and is"は後になって、別の著者によって1882年〜1884年の間に"Amateur Work Illustrated"の中のシリーズものとして追加修正事項と共に掲載されました。その中には2つのヴァイオリンの図版が載っています。
 そのオリジナル版書籍の中の2つの図版は、"Woodburytype"(ゼラチンを用いた凸版印刷)方法による非常に緻密な写真で、それらのそれぞれのページに個別に挿入されました。;商業分布のために製作された後の版では、一般的方法で印刷された図版を含んでいます。
 そのヴァイオリンに関する製作日付に関しては少しも言及されませんでしたが、当時の所有者から取って「George Somes」と命名されました。ハンマの著書の中では、そのヴァイオリンはその著書の出版される40年前に、フランスの南部で彼らによって取得され、その製作年代はおよそ1890製だっただろうという情報を提供します。
 我々はそのヴァイオリンを、優秀な鑑定士そしてディーラーとしてよく知られているニューヨークのEmil Herrmannのカタログの中に再び見つけました。それは1926年のことです。そこには次のようにコメントされていました。そのヴァイオリンは昔はチューリッヒの熱烈なヴァイオリン愛好家Steiner-Sehweitzer博士の所有物でした。
 そして別の鑑定家、フィンランドのヴィボリのHarry Wahlのコレクションを渡り、後にこの国に入ってきたのです。アメリカでそのヴァイオリンは、Herrmann氏のコレクションに含まれ、1937年のストラディヴァリ200年記念の祝賀に出展されました。その後、Herrmann氏からArved A.Kurtz氏(ニューヨークの著名なヴァイオリン奏者で、シカゴ交響楽団主席チェリストのSdmond Kurtz氏の兄弟)の所有物となっています。
 これと同様のヴァイオリンは、1906年にHerrmann氏の父によってWilly Burmesterに売却されました。
その楽器には、「1565年のシャルルIX王のために製作された」というニコラス・リュポのラベルが貼っています。ヴロツラフの一家、Herrmann卿から購入したBurmesterは、4年間にわたり、その楽器を演奏活動に使用しました。
 次に"The King"というチェロについて考察してみましょう。それはOlga Racsterの"Chats on Big and Little Fiddles"に絵入りで載っている、紋章の入った、注目に値する仕事の楽器です。この楽器もシャルル王の所有物で、ピオ法王5世からの君主への贈り物として保有していました。またその他にも、オリジナル・セットとは異なったいくつかの楽器があったことを示しています。
 奇妙にもヘロン・アレンは次のように書いています。革命の間に「チャペルから取り出されて、暴徒によって破壊された楽器・・・」。Racster女史は、「・・・暴徒はすばらしいセットを全部破壊してしまいました」と書いています。また続いて、「・・・暴徒の無謀な復讐を乗り切り、後に修復された2本の楽器があります。それはヴァイオリンと、キング・チェロで、かのセットの中の唯一の生き残りなのです」。
 そのチェロがどのような運命を辿ったのか、我々はなんの手がかりも持っていません。あとはFate氏が考えた話があるだけです。しかし、それは後日、チェリストのドュポが一時所有し、他の様々な手を通り抜けた後に、最終はサリーのジョン・ヘンリー・ブリッジに属すと、1891年のRacster女史の記録に残っています。最近では、そのチェロはフランス、パリの楽器商であるシャノのコレクションに含まれています。
 同じタイプのヴィオラは、1921年にオランダでヒル商会によって入手されました。それはロシアの所有物で、Herrmann氏によると、ほとんど完全な状態であったということです。2巻組で発行されている、注目に値する著書"The history of the violin"(E. van der Straetonによって編集)の中では、それについて書かれています。様々な演奏者の教育の中において、ヴァイオリン族の発展の歴史などを紹介したり、調査したりする章があります。
 しかしその中で、ジョージ・ハートによって与えられたアンドレア・アマティの仕事のかなり好ましくない記述には、私は疑いを持ちます。ハートは、アンドレアの仕事は、f孔が優美でないブレシアの特徴を持つと書いています。しかしこれに対してvan der Straetenも次のように言っています。:「メッサー所有のA.アマティによるいくつかのヴァイオリンについて、ヒルは、それらの楽器は完全な技量によって作られたものであり、それは写真図版を見ればその優雅な形からも証明できるので、ハートの判断について耐え難いと言っている。」
次の図版は、1564年製のアンドレア・アマティ作のヴァイオリンです。それは当時、イギリスの最初のコレクターである、ウィリアム・コルベットのコレクションに含まれていたものです。彼はそのコレクションを、グレスハム大学へ寄贈することを希望したのですが、それは拒否されて、後に1751年に競売にかけられて分散してしまいました。長い時間をかけて、ヴァイオリンはいくつもの所有者を通り過ぎ、そして、最後にはヒル商会の所有物になったと記録されています。それが、ヒルによってオックスフォードのAshmolean博物館に寄贈された、まれな楽器コレクションの1つです。
 このヴァイオリンは、かのシャルル王の「セット」であると言われているもので、1748年にコルベットが死んでから、すなわちフランス革命のずっと前に、フランスから脱出していたものと考えられます。
 van der Straetenは、初期のヴァイオリンが、とても希少なものであったという、もっともらしい理由を提供しています。:「初期におけるヴァイオリンは、イタリアから離れて、ダンスとお祭りでのみ使われるような楽器だったのです。それは、弦楽器界のシンデレラとでも言えるような、多少軽蔑された楽器ででした。初期のその楽器は、少し改良された型が出るとすぐに捨て去られてしまうような楽器で、「愛するヴィオール」というような注意では取り扱われませんでした。そのために、「16世紀初頭のほとんどのヴィオールは、ウィーンの皇居にあるEstenseコレクションの1500年製の非常に貴重なギター・フィドルと、同じく貴重なフランチェスコ・リナノール作のトレブル・ヴィオール(約1540年作)、そしてベローナのGiovanni d'Andrea作の美しいリラ・ダ・ブラッチョ(1511年作)は別として、残っていません」。「・・・おそらく、現存する最も古いヴァイオリンは、アンドレア・アマティ(1564年没)によって作られたピッコロ・ヴァイオリン(violino piccolo)かもしれません。これにつては、ヒル商会の鑑定書が残っています。」
 ここで、初期の著者、ShefrieldのJoseph Pearce氏によって1866年に発行された本の抜粋に注目してみましょう。そこには、クレモナやアマティ一家について、そして後の様々な所見、またはヴァイオリン製作と芸術の傑作について書かれています。「ピオ法王5世がアンドレア・アマティ作のチェロをフランスのシャルルIXに贈ったことは、クレモナの楽器が国を代表する贈答品として相応しいものであったと考えられます。つかの間の、なんと名誉ある時だったことでしょうか!
 クレモナは、そのもっとも有名な市民の名前、および最も顕著な特徴を忘れ去ってしまったのです。およそ100年間にわたり、クレモナの名声を現代まで運んだアマティ、ストラディヴァリ、グァルネリについて、誰も議論することはありませんでした。
 「300年経った現在では、彼らがクレモナの偉大なるヴァイオリン製作者ということは疑いの余地はありません。アンドレア・アマティは1520年に生まれて、1580年に死んだと考えられます。アンドレア・アマティが誰からヴァイオリン製作の技術を修得したのかは、いっさいの記録がありません。しかし、彼がかなりの技能に達していたということは、明確なことです。しかし、彼が修行のためにブレシアのガスパロ・ダ・サロのもとで働いていたという推測は少々危険です。もっとも、彼はそこでニス技法以外の何らかのもの、例えば工房の運営などを学んだとは考えられます。彼のいくつかの楽器は、見事に作られていて、素晴らしい質の、茶色と明るい赤色を持った深い黄色の琥珀のワニスで覆われていました。彼のヴァイオリンは、小さく、高い隆起のモデルが特徴的に思えます。裏板には、現在では一般的ではない、「板目」材を使用することが多かったようです。それらは、素晴らしく甘くデリケートな優雅な音がします(この甘い音は、このアマティ一家の製作者の主な特性です)。この特性に関して、著名な著者は、アマティが生きたいた時代では、近代的な演奏者が要求するような力強い音色である必要はなく、また後の多くの楽器のような大きな音量も必要なかったからと推測します。これは、アンドレアや他のアマティ一家によって採用された高い隆起のモデルの、もっともと思われる理由です。上品で美しく甘い音を作り出すために、アマティは素晴らしい技術と、一般に小さいサイズを結合させた彼独特のモデルを作り出したのです。彼らはとてもたくさんの数の、現代の標準からするとやや小型の楽器を作りました。そしてその音色・音量が当時としては十分なものだったことは疑いの余地はありません。現代の音の好みに伴って、その同情的とも言える美しい音色のアンドレア・アマティの楽器は、演奏家の手から収集家の手へと渡っていったのです。」(Pearceはドイツの著者オットーが、初期の製作者であるアンドレアやガスパロの失敗について言及していることについて、コメントしています。そして、私は前章においてのオットーの言葉、すなわちアンドレアが、彼の息子よりも早い時期には製作を行っていなかったという意見に対しての反論を見つけました。)
 Paul Stoevingの仕事"The Story of the Violin"は、非常に注目に値します。それは素晴らしい文章と、良い図版によって構成されています。そしてその著書は、アンドレア・アマティとアマティ一家に関する考察によって章が始まります。女神の投げたサイコロが、たまたま、ロンバルディ地方のクレモナに、不滅のある人物を生み出し、そしてこの町を弦楽器製作の中心地としたのです。これが誰のことかわかりますか?すべはクレモナで起こりました。その男の名前は、そこに誕生したアンドレア・アマティ・・・かれがこの町の名を世界に轟かせた、その人なのです。アンドレアがいつ生まれたのかは知られていません。しかし彼が1546年に楽器を製作したという記録を残っています。そしてそれは、ガスパロ・ダ・サロが生まれるの22年も前のことなのです。したがって、何人かの著者によって、懲りもせず「アンドレアはガスパロ・ダ・サロの弟子だった」と言われている事に対して、私は驚くばかりです。アンドレアが後年、若いガスパロと知り合って、何らかの影響を受けたかもしれません。しかし、弟子ではないのです
 1928年3月号の"The Strad"の中に、「ヴァイオリンの誕生」という題のイギリスの著名な作家によって書かれた記事が載っています。そこでも、「アンドレアが、今日知られる最初のヴァイオリン製作者」と書かれています。その記事に付随している一枚のヴァイオリンの写真は、1564年に作られたアンドレアの正統な作品として掲載されています。そしてそこには、胴体13-15/16インチ、上バウツの幅6-7/16、下バウツ幅7-7/8インチ(訳者注:順に35.4cm、16.4cm、20.0cm)という正確なデータも記載されています。著者が述べるように:「我々の先代達は、ガスパロやマッジーニの正確な期日の研究無しに、その作品のスタイルから、簡単にそのルーツをブレシアと決めてしまったのです。しかしながら今日では、様々な日付の研究によって、いい加減な考察は、地獄へ葬り去られるであろうと、私には思えます。」
 アンドレア・アマティに関するこれらの様々な所見への正しい終幕は、プロとアマチュア演奏家のよりどころとなっているGrove音楽事典の最新版にて降りたといってよいでしょう。多くの場合、オリジナルのデータや考察は良い仕事なのですが、その後に間違った情報を加味した使われ方をする場合が多いのです。;その研究は、それらの誤った情報や記事の見直しから行わなければなりませんでした。
 アマティ一家に関する最初の考察記事はポール・デービッド氏によって書かれました。;それは聖職者E.H.Fellowesと故Alfred Ebsworth Hillによって書かかれた著書の中で紹介されています。我々は、他のいかなる製作者よりも、アンドレア・アマティに感謝しなければなりません。かれは現代のヴァイオリンの基礎を築き、アントニオ・ストラディヴァリがこれほどまで評価されるその道しるべを作ったのです。アンドレア無しに、現在のヴァイオリンは決してないのです。いわゆる「基本型」をアンドレアの孫、ニコロが導き出したわけではありません。しかし、それは単に「大型」か「小型」かの2種類の内の一つにしかすぎないのです。ブレシアのマイスターとアンドレアとの関係の誤解は、ほんのいくつかの単語で修正されます。すなわち、彼らは同時代の製作者であり、すなわち、どちらかを弟子にとることはできなかったという事です!



第3部

 歴史を勉強していくと、ヴァイオリンがイタリアに伝来する以前の、イタリアの人々の政治的苦悩を知るでしょう。彼らのその閉ざされた小さな世界では、運命のもとに様々な混乱が起こったのです。
 Haweis博士はこう書きました。「クレモナ、不和の古代都市・・・。ギリシア語で『高い城壁』または『孤立』を意味する、クレモナ。そこは古代ゴート族とランゴバルト族のが、常に争っている戦場でした。アマティ、ストラディヴァリ、およびグァルネリによって、クレモナの町には音楽がもたらされ、そしてこの不幸な町だったクレモナの名前は永遠の星のごとく輝きました。しかし、それらの伝統を全て忘れ去ってしまう町、それもクレモナなのです。」
 ロンバルディ地方は、常に侵略者に脅かされ、また、常に内部の争いで混乱していました。美しいこのロンバルディ平野の人々は、野蛮人の悪態と残忍に耐えていました。アンドレア・アマティの目が最初に光をみうけたときに、その恐怖の物語はまだ始まったばかりでした。事実、彼の初期の終業期間中は、ブレシアで凶悪な略奪が起こった、わずか10年間後だったと思われます。太陽の眩しい、歌の国。そこに突然黒雲がたちこみました。恐怖、争い・・・当時世界に名を轟かせた、リュート、ヴィオール、栄光のヴァオリンの歌声はかき消されてしまったのです!
 アンドレアの誕生した時点は、丁度平穏が訪れているときでした。従って我々は、彼の生活も静穏で、乱されなく、不吉な日の恐れ怯えずに自分自分の仕事に打ち込むことができたと信じます。
 彼の結婚の記録は、Lutgendorffによると1554年と記録されます。しかし、彼の息子のアントニウスとヒエロニムスの出生日(1550-1551)を正しいものと考えるならば(多くの著者によって!)、アンドレアが1554年に結婚したという記述は明らかに間違いです。最新版の「Grove音楽辞典」によると、アントニウスが1551年に、そしてヒエロニムスが1556年に生まれたと、繰り返し書かれています。この疑問が正しいか否かは別として、彼には3人の子供がいて、そのうちの2人の息子、そして1人が娘だったことは確かなようです。これは彼の税務申告書の記述から知ることができました。
 Haweis博士は他の多くの人と同じように、事実を追求することに必要性を感じていました。そして彼は我々に、James M.Fleming(他の著者と比べると地味な存在です)の興味深い記述について提供したのです。それは、アマティ一家の次の製作者となる、アントニウス・アマティ(1550年頃にクレモナで誕生、1635没)とヒエロニムス・アマティ(1550年頃にクレモナで誕生、1638没)の2人の兄弟に関してです。彼らはアンドレアの息子であり、その誕生日には同じ年が記載されています。多くにおいて、生没に関する情報があやふやな場合が多い点を考慮に入れると、彼らが双子だった考えるのはよくないと思います。これらの製作者のその後の履歴およびそれらのそれぞれの没年に関しても、長い期間、様々な説が入り乱れています。
 この事に関して、ハート氏は次のように述べています。「アントニオとジロラモはアンドレア・アマティの息子達です。アントニオ・アマティに関する生没の確固たる証拠は存在しません。我々は、彼の兄弟のジロラモの結婚した日付を、彼が死亡した教区記録から知ることができます。それによると1576年と、1584年5月24日の2つの日付が記載されています。ジロラモは彼の2番目の妻との間に9人の子供の子供を授かりました。その5番目の子供が、後に有名なヴァイオリン製作者となるニコロでした。ニコロの母は1630年10月27日に疫病で死んで、そしてジロラモ、つまり彼女の夫も6日後の1630年11月2日に同じ病気で死んだのです。
ジロラモの戸籍には次のように記述されています"Misser Hieronimo Amati detto il leutaro della vic di S. Faustino(教会の製作者という意味)"。
 Vincenzo Lancetti氏はこう述べています。「Count Cozioは、彼の把握している全ての楽器の戸籍データを持っています。それによると、アマティ兄弟作楽器の最も古く、確かな期日は1577年であるとしています。
それから、彼らは1628年まで一緒に働きました。アントニオは、Jerome(聖ヒエロニムス)として長生きし、楽器を作り続けました。1648年の日付のついている素晴らしい細工のヴァイオリンが、アントニオの名前が単独に記録されている最後の作品とされています。この情報から、この製作者が何歳まで生きたのかというおおよその推測ができるのです。」
 まさしくハート氏が、第2部において、アンドレア・アマティは1611年まで生きたと間違えて述べたように、Lancettiがアントニオが彼の兄弟よりも長生きしたと記述したのは、誤りと考えられます。
これは後年、ヒル兄弟の著書「グァルネリ家」によって次のように正しく示されました。「彼らアマティ兄弟は、一生共同作業を行いました。我々の経験からすると、ジロラモは数本の楽器にのみ独自の名前を記しました。しかしアントニオは決して独自の名前は記入していません。これらの共同作業の期間は、およそ1590年から(あるいはそれよりも数年早く)、そしてジロラモの死ぬ1630年まで続けられました。アントニオは彼に先立って亡くなっています(日付は知られていません)。彼らは両方とも優れた製作者でした。そして、父と息子達の協調と努力によって、ヴァイオリンはその出発以来、最大の発展を遂げたのです。製作精度も、輪郭の美しさも共に飛躍したのです」。彼ら兄弟の多くの仕事を個人的に調査した結果、その正当性は十分に実証されます。
そして次に、父の作業はほとんど影を潜めていき、息子達によって数多くの素晴らしい作品が作られ、プロの演奏者の手に渡りました。これらはヴィオラとチェロが多いのが特徴です。もちろんヴァイオリンもまた、アマチュア演奏者以外で演奏されています。これらの初期の職人には木の知識があったという事実に注意を向けます。そしてまた、そのワニスにも見られるような手間をかけた準備と仕事が、結果として長年にわたって楽器を保護し、彼らの多くの楽器が健全なまま残ったのです。
 初期の時代において、ヴァイオリンという楽器がもてはやされなかったという理由は、とくに重要なことではありません。;様々な試行錯誤が行われ、中には実用的でないアイデアもありました。当時すでに一般的だったヴィオールの構造、演奏形態を発展させ、いくつもの新しい形、または新タイプが考えられました。そしてそれらは、当時、すぐには熱烈な歓迎を受けはしなかったのですが、確実な第一歩を踏み出したのです。したがって、彼の言うような課題は点在します。アンドレアは多くのヴァイオリン、またはヴィオラ、チェロを製作しています。しかし誰の手助けも必要としませんでした。2人の息子が成長して、彼らが父のもとで熟練した修行を受けたならば、その工房には3人の職人が存在することになり、そしてその工房は営業的にも満たされたでしょう。当時としては、楽器製作者や楽器商の内部詳細、特に理論や寸法値、調整方法に対しての秘密主義は珍しいことではなく、それは特別、非難されるものではありませんでした。それらの秘密主義が解けたのは、ほんの数年前のことなので、僅かに当時の寸法値が残っている程度です。調整方法についての記述は更に少ないのが現状です。それらの珍しい貴重な資料でさえ、詳細な記述部分に関しては、ほんの僅かでしかないのです。いかなる秘密主義にも迎合すべきではありません。
 当時の巨匠達の秘密主義の為に、我々には長い間共通の知識がありませんでした。我々は、彼らの技術に関して想像するしかなかったのです。アンドレアや彼の息子が、決して他人を雇わなかったのも、製作の秘密を守るためだったと考えられます。
 これに関して、ヒルも言っています。「一方、我々は、彼ら兄弟の生存中にニコロ(ジロラモの息子)以外のいかなる生徒も雇用しなかったということに注目します。それは、アンドレアと彼の息子の両方がしっと深く、彼らの技術が洩れることを警備し、一家でそれらの知識をだれにも伝えたがっていなかったのはなかったかと考えられます。彼らが作った楽器の種類を調べることで、彼らが何に関して興味を持っていたかということを伺い知ることができます。彼らの事を想像するには、"Life of Stradivari"の中に記述されているガリレオの手紙の話が絶好です。この話しは1637年11月から1638年5月までの期間での事です。その頃、クレモナ・ヴァイオリンは、その起源となったブレシアのヴァイオリンを越え、より高い評判を得ていたと示されています。
すなわち、おそらくガスパロやマッジーニと同じように、アマティも同時代の製作者として知れ渡っていたのです。その言葉はヒルの著書の中で、次の内容に関連されて繰り返し用いられています。「あなたの甥のヴァイオリンに関係して……購入することを望みます。私はSt. Mark音楽の音楽監督にこの事を話しました。というのは、彼が私に、ブレシアのヴァイオリンを探し出すことは簡単だが、クレモナ製の楽器が格段に優れているということを言ったからなのです。それは、楽器の価格がクレモナ製楽器が最低でも12ダカット金貨であったのに対して、ブレシア製も含めてそれ以外の楽器は4ダカット金貨未満であったことからもうかがえます。
その手紙にはさらに、注文のヴァイオリン製作が遅れている事に対しての弁明も記載されているのです。
そこから当時の製作についてのヒントを得ることができます。それは当時の冷たい気候によって「太陽の強い日差し」が不足し、それが製作の遅れを生んだとも考えられるからです。
 さて、雇い職人または弟子について、再び考えてみましょう。アンドレアの死に伴って、彼の息子達は互いに協力し合い、すでに大きくなりつつあるヴァイオリンの需要を満たすため製作を行っていましたが、それでも足りない状態でした。そして工房に雇い職人を迎える必要性が出てきたのです。
 彼らがそれまでに守ってきた秘密主義を解放したのは、私は、この様な理由だった可能性が原因であったと考えるのです。私の知る限りの情報によると、彼らの父が1581年に死亡したのは、兄弟が成長して、すでに活発に楽器製作に従事していたときの事です。後の世代から楽器を奪うために介入されるFateのどんな影響
その楽器は彼ら3人が共同で作業していた時代の作品です。その楽器はアンドレアの死後、たぶん誰からも教えられることなしに、兄弟だけで製作していた10年間の期間に作られたものなのです。そして彼らの活動が途絶えるのは、それはアンドレアという工房の主の死後、そう遠くなかった時の事と考えるのは、ごく自然な仮説でしょう。ヒルは、先に言及されたとおり、次のように述べています。「1590年から(もしかすると更にもっと早い時期から)、製作された楽器には、彼らの共同作業を示すラベルが貼られています」。しかしそれには、知られている限りでは10年間もの空白期間があるのですが、製作自体が休みなく行われたことは、疑う余地はないでしょう。




第4部

 アントニウスとヒエロニムス・アマティ兄弟によって作られた楽器の、完璧なまでの製作技術と芸術性は、他のいかなる製作者も上回ることができないでしょう。彼らの楽器の特徴は、他の製作者と異なり、非常に純粋で柔らかい音色をも持っているいます。それは後にストラディヴァリが生み出すより幅広で、そして音量のある完成されたモデルにも、大きな影響力を残しているのです。
 ヨーゼフ・グァルネリ・デル・ジェズは、彼の楽器の色に陰影を施す工夫を考え出しました。しかしながら、当時はアマティ兄弟のヴァイオリンのスタイルが大きな目標でありました。そしてそれは今でも変わりないことは、多くの著名な演奏家が彼らの楽器を愛用していることからも分かります。
 より初期のヴァイオリンはその音色から、金管楽器と張り合うことはできませんでした。そして騒がしい公共の場などでの演奏に使われることはなかったのです。しかし、オーケストラのヴァイオリン演奏形態の発達変化によって、より強いヴァイオリンの音色が求められるようになってきまいした。それは時代の流れだったのです。ヴァイオリンにより大きな音量を求めた演奏者達が増えました。そしてそれは製作者の努力によって、次第にその要求は満たされていきましたが、その代わりにヴァイオリンの上品な音色は犠牲になったのです。
「violon stentor(フランスの製品)」は、「大声」という意味です。人々は、魅力や興味を引かれないような、ただ単なる騒がしい音楽は決して受け入れません。
 そのヴァイオリンも、徐々に他の楽器と置き換えて重要な楽器として用いられるようになっていきました。特に、古くからまろやかな音色の「コルネット」は多くの作曲に用いられてきました。この楽器は甲高い音で、抜きんでた音がします。この楽器に代わりにヴァイオリンが用いられるようになったのです。ここで述べているコルネットは10th〜fまでのごく一般的な18世紀の木管楽器です。この楽器はヴァイオリンがもてはやされる前には、「小トレブル・コルネット」によってヴィオラの上の音域を受け持っていました。ここでこの「コルネット」を考える上で、我々が現代において知っているコルネットと混同してはなりません。現代のコルネットは金管タイプで、とても大きな音が出るように作られているからです。
 これらの所見が証明しますように、アマティの楽器は聴衆にとって快く、さらに演奏者の弓に敏感で、満足できる音量を作り出す楽器性能を完全に持っていたのです。それはしばしば「甘い」音色という言葉で表現されますが、音量が小さいという意味と同じではないのです。コンサート、またはオーケストラ演奏でのアマティ楽器の使用において、「響きが無い」または「音量が大きくない」ということは決してありません。それは多くの有名な演奏者達が実際に満足して使用していることからも証明できることです。
 アマティ・ヴァイオリンはその「高い隆起モデル(それらの隆起は厳密に言うと中位ですが)」に関して大きな誤解をもたれています。それはヒルが彼の著書の中で「1704年製のストラディヴァリウスの隆起」で述べている言葉が元になっていることは否定できません。「なぜならストラディヴァリは、彼の楽器の中にアマティの美しく優雅な形の要素も取り入れました。そしてその中には多少なりとも、アマティの隆起の影響も受けているのです。ヴァイオリンの「高い隆起」に対する偏見は、18世紀の程度の低い製作者達によって作られた、アマティやシュタイナーの楽器の大げさなコピーがもとになって生まれてしまったのです。月日は流れ現在においては、ごく一般的な演奏家や評論家さえもが、例えそれがストラディヴァリであったとしても、単に高い隆起のヴァイオリンだというだけで非難する傾向にあります。それは音色を無視した、論外の議論に等しいのです!」
 ここに、非常に複雑な模様の施されたヴァイオリンがあります。これはそのスタイルと美しさから言って、アマティ兄弟によって作られたことを示しています。ハンマの著書には6本のヴァイオリンと1本のチェロが掲載されています。マックス・メラー氏は、ヴァイオリン;Lyon & Healyの提供するあるカラー図版には、1595年のに付けの記されたあるヴァイオリンが掲載されています。この楽器は"The Henry IV"と呼ばれている楽器で、裏板には豊に飾られた王章と、ラテン語の長い碑文が記されています。ストラディヴァリ二百年記念祝賀祭にはいくつもの楽器が出展されましたが、その中の2本のヴィオラと4本のヴァイオリンに関しての、履歴が印刷されています。この記事はとてもためになり、また興味ある内容です。その1931年のWurlitzerカタログの中のある1629年製ヴァイオリンに注目してみましょう。
 初期のヴァイオリンが、今日ヴィオラとして分類されるような大型の楽器であったということは、十分可能性のあることです。それは、その頃の記述に頻繁に登場する"violino-piccolo"という言葉からも証明できることです。この様に小さな胴体の楽器が登場し始めたことは確かです。しかしそれが現代で言う標準のヴァイオリンそのものであったかは疑わしいです。他にも、「キット」や「ポシェット」等の同じような細長い小型の楽器もあったからです。これらの目的は、その小さな共鳴箱でより高いピッチを出すことでした。今日のヴァイオリンの形をしているピッコロ・ヴァイオリンにはは様々な種類がありました。例えば、胴体に対してネックの長い楽器は「クォート・ガイゲ」などと呼ばれていました。それらの小さいヴァイオリンは、今日に作られるように子供用というわけではなく、当時のヴァイオリン演奏技術の限界であった高い音の演奏を受け持ち、オーケストラのアンサンブルに役立っていたのです。
 次のイラストは、初期の高音域の為に使用された、様々な擦弦楽器です。これらは「キット」や「ポシェット」として、初期の頃には知られていました。Gerald Hayesによる著書「楽器」の中では、以下のように説明されています。「オリジナルのキットは小型のレベック(訳者注:中世の3弦の擦弦楽器)の様な楽器で、ともて細長い胴体をして、17世紀後半まで小型ヴァイオリンとして用いられました。元々は「ポッシェ」または「ポシェッテ」として知られていたものです」。これらの楽器が、現代で言うヴィオラの音域であったヴァイオリンの、さらに上の音階を受け持っていた最初の楽器であったということは間違いないことです。
 ヴィオラという名前は、現在ではその大きさの楽器の分類として用いられていますが、様々な大きさの種類が存在します。この章でも取り上げられているように、例えばストラディヴァリのヴィオラなどの大きなタイプのものは、ものすごく大きなサイズをしています。ストラディヴァリは大きなタイプのヴィオラを「テナー」と呼び、小さなタイプのものを「コントラルト」と呼んでいたようです。フィレンツェの博物館に、改造されないままの状態で保存された、胴体の長さが18 7/8インチ(訳者注:47.9cm)もあるテナーがあります。その楽器はトスカニー宮殿の所蔵品だったという記録が残っている楽器です。
 Fetisによって書かれ、たくさんの人々に読まれ、そして多くに引用されてきた「アントニオ・ストラディヴァリの認識(Notice of Anthony Stradivari)」の中に、興味ある内容が書かれています。それは、「ストラディヴァリはアルトをほとんど製作せず、ほとんど全てが大きなサイズのものだった」という記述です。しかしこれは、先ほど述べたテナーの例外を除いて、正しくないと言えます。現存するある小型のタイプの楽器を観察すると、それは明らかに当時のヴィオラ演奏者が望み、そしてマイスターがそのように設計した考えられるからです。
しかしながらその時でさえ(ヒルの録音の参照にて指摘されるように)、アマティの時代のように、大きな寸法のヴィオラだから演奏不可能になるとう曲が書かれていたわけではありません。第一ポジションを離れるような困難な演奏技術の要求は、めったにありませんでしたし、また指使いも単純なものでしたから特に不都合は生じなかったのです。「ヴィオラ」という言葉は一般的ではなく、長い間「テナー」、「コントラルト」または「アルト」と呼ばれていました。これは現在でも英語では「テノール」、 フランス語で「アルト」、 そしてドイツ語では「ブラッチェ」として呼ばれています。同様に、「ヴァイオリン」という言葉も、17世紀になるまでは一般的ではなかったのです。初期のヴィオラ、またはそれに近い試行錯誤の楽器(ヴァイオリンやピッコロ・ヴァイオリン等)の様子はヒル兄弟による著書「ジオ・パオロ・マッジーニの生涯と仕事」の中に見ることができます。「その時代の『アルト』と『テナー』はテナーの方が大きく、アルトが小さいというようなそれぞれ異なった楽器でしたが、そのピッチは同じものを使っていました。もともとのテナーという言葉は(ヴィオリーノという言葉も、テナーのことを指していました)、現代において使うテナーとは異なり、アルトの事を指していました。1533年になるとLaufrancoが明らかに一般的な意味でvioliniという言葉を使用しています。そして、そのずっと後の1722年にはBonanniがテナーとして、violinoをいう言葉を使っています。しかしそれは様々な種類のヴァイオリン全体の事を指していると考えられます。violinoという言葉の意味が、テナーからヴァイオリンへと徐々に変化していったということは疑う余地はないでしょう。イタリア語のviolinoとフランス語のviolonの両方が元々、テナーを意味しました。我々が現在知りうるヴァイオリン(violino)の為の最初の音楽は、ガブリエリによって1597年に発表された二重カルテットです。しかし、それは明らかに『テナー』としてのヴァイオリンのための曲であり、現代でいうヴァイオリンでは演奏不可能です。1597年以前においては、violinoという言葉は一般的にテナーを指したのです。
 現代のオペラと現代オーケストラ曲の創設者のひとりであるモンテヴェルディの1608年の事実ついてさらなる検証をしてみましょう。彼はオルフェオの中でまず最初に、テナーではなくヴィオリーニとヴァイオリンを割り当てています。そのオーケストラのパートに‘piccoli violini alla Francese'と記されています。彼はvioliniという言葉を単独で使ってはいませんが、それはたぶん、ヴァイオリンという楽器がイタリアでよりも、先にフランスにおいて、一般的に認知されていたからでしょう。1615年にGabrielliは、‘tre Violini'とバスのためのソナタで、本当のヴァイオリンの曲を書きました。1610年のモンティヴェルディ作曲の楽譜の中には、第5ポジションまで上がるヴァイオリンのパッセージが書かれています。1615年には、それは専門のパートとして書かれ、 急速にイタリアのオーケストラにおいて普及していきました。1624年になると、ヴァイオリン演奏技術の中に『トレモロ』、『ピツィカート』、『グリッサンド』などを見ることができます。
 現在、ヴァイオリンについて考えるときに、ガスパロとマッジーニ(そして、今回の目的でもあるアマティ兄弟)との関係を抜きに考えることはできません。しかし、彼らの『ヴァイオリン』は、全く同じものを意味していたでしょうか?私は、そうは思えません。ガスパロは1609年に死んでいますが、我々が最初のヴァイオリン・オーケストラ音楽を、イタリアにおいて見ることができるのは、やっと1608年になってからなのです。ガスパロのヴァイオリンについてめったにに関して極端な取られるこの事実…彼が作った他の楽器の数…彼によって一般的に使われる項violiniが示します…示します…テノール多く…彼の作成は生き残ります。要するに、ガスパロはたぶん、主にヴィオールの製作者であったと考えるべきなのです。しかし、彼はまた、多くの需要があるテナーも製作しました。オーケストラでは高音部をコルネットとヴァイオリンで受け持っていたのです。」
 ストラディヴァリに関するヒルの仕事の中に、以下の記述を見つける事ができます。「ヴィオラの簡潔な製作過程を追うことによって、証明できるかもしれません。1660年前の製作者であるZanetto、ガスパロ、マッジーニ、アマティ、そしてその他の製作者達は、頻繁に大きなヴィオラを作っていました。小さなヴィオラはほとんどなかったのです。彼らマイスターの製作生涯における初期において、 ヴィオラの形や寸法は、一世紀以上にも渡ってガスパロ・ダ・サロとアマティによって定義されたものが作られ、ほとんど形態に変化は見られませんでした。

 当時のヴィオラはこの様な大きな寸法、それどころか時々さらに大きなものさえも存在していました。小型のものは、最も古く知られている中では、ストラディヴァリが1672年に作った小型タイプのヴィオラで、これ以降ヴィオラの大きさは急激な変化を見せるようになったのです。1660〜1690年の期間において、小型のヴィオラがどの程度普及したのかを説明することは困難ですが、そのような楽器は取り扱いやすいために、より高度な演奏が可能になりました。ガスパロやアマティの大きなヴィオラで容易に演奏ができたのか、またはそのような大きなヴィオラの音色が音楽のバランス的に必要だったのか、初期におけるヴィオラの重要なパート役割について、当時の出版された楽譜(1712年発行のコレルリ作曲 "XII Concerti Grossi")の中には手がかりは全くありません。たとえヘンデルの時代になっても、ヴィオラの演奏音域は第一ポジションを越えて演奏する必要はありませんでした。従って、大きなヴィオラによる演奏も困難なことではなかったのです。
Monteverde(1608)による「piccoli violini all Francese」の内容とヒルの所見を総合すると、アマティ兄弟は主にヴィオラ製作を行っていたと考えることができるのです。というのは、ヴァイオリンは最初はフランスで普及していたが、イタリアでの需要はそれほど無かったと考えられるからです。このように、アマティ兄弟は大きなヴィオラを多く作り、小さなものはわずかしか作りませんでした。
 前章にて図示されている1626年製のヴィオラは、オリジナルの状態を保ったままの、非常に貴重なものです。その胴体長は17 3/4インチ、上部幅 8 1/8、中央幅5 7/16、下部幅が10インチ(訳者注:順に45.1cm、20.6cm、13.8cm、25.4cm)です。あいにく、頭部はオリジナルではなく、1800年頃にジョセフ・ヒルの素晴らしい技術によってによって付けられたものです。そのヴィオラは後にヒルの元からWurlitzerコレクションとなりました。そしてヴァイオリン奏者のウラジミール・バカレニコフに渡り、彼が演奏活動を終えると、ヴァイオリンと引き換えにヴィオラをWurlitzerに返しました。次に、一時期再びヒル商会が所有した後、我が国のロンドン・クァルテットのヴィオラ奏者の所有物となったのです。
このような貴重な楽器において最悪のことは、心なき楽器製作者と修理者達が、多くの古い傑作を改造してしまったことです。「その結果、多くのチェロやヴィオラが大きなダメージを被ったのです。
一時的な所有者の浅はかな考えによって行われるこの様な改造は、後々「破壊者」として非難され続けることは明白です。現代のヴィオラ奏者は大きなタイプの楽器を求め、また製作者もそれに答えようとしている事実を見ても、当時のそのような行為がいかに浅はかな行為であったかということが伺いしれます。
単にストラディヴァリが小型のモデルを採用したということだけで、当時の偉大な製作者達の作品に、変形させられてしまうための正当性が付けられてしまったのです。
 チャールズ・リードは1872年に開催された楽器展示会において、小さく改造されてしまったヴィオラ(またはチェロ)に対する犯罪的行為について批評しました。「アマティ兄弟のこのコレクションは元来、素晴らしいテナーとして製作されました。しかし、後にそれは全くばかばかしい古い慣例によって、小型に改造されてしまったのです。切断したり不具してしまう行為は、なんと愚かなことなのでしょう。これらの無情な人々は、それぞれ別の楽器から、響板の上部と下部を切り取ってきてくっつけてしまったのです。その結果、大きな中央部分に小さな上下部分が付いた、不格好な楽器が出来上がるのです。もしもこれらの高貴な楽器の1つが、オリジナルのままイギリスで生き残っているならば、私は、所有者がその楽器をそれを切り割かないように嘆願します」。
リードによる詳しい調査の結果、このように切断し不具にされた無情な処理が数多く行われていたことが判明しています。図版に掲載されている作品も、当時、小さなサイズにさせられいたことが、明らかに写真からも伺い知ることができます。響板の中央部分が周辺部分から切り取られています!何て事なのでしょう!この逆「V」字形の切断跡は、その後に同じ過ちを犯さないための象徴として、今日残っているかもしれません。
この様な不幸な楽器ですが、それでも、それはそのすばらしい色調の品質を伺わせます。
 次の楽器は1619年製作と記されたラベルが貼っているものです。;この楽器を誰が、いつ切断したのか知られていません。判っていることは、1800年以前にイギリスに、この改造された形で到着し、それをノリッジに住んでいるEllis(後にロンドンに移った)がジョン・ベッツより購入したという事です。1850年にその ヴィオラはジョンEllisによってカナダに持って来られて、おそらく「son of the Mr. Ellis」と名付けられました。
私の知るところでは、その楽器はWurlitzerコレクションの一部であり、後にそれはセントルイス在住の人に売却されたということです。この様にコレクションの一部が売却されることは希なことです。元々Wurlitzerコレクションもメディチ家の膨大な所有物のひとつであり、長い間フィレンツェの宮殿に保存されていたものです。そしてメディチ家の貴重な楽器の多くが18世紀に、分散しました。この中のあるヴィオラがイギリスに渡りました。そして多くの所有者の手を渡り、結局ヒルの所有物となったのです。そしてそれは次にWurlitzerにもとに渡り、1926年にはFreemanによって故Felix Warburgに販売されます。Warburgが購入してアメリカに持って来られてWurlitzerコレクションとなったわけです。それがこの賞賛に値するヴィオラなのです。それはストラディヴァリの1701年製ヴィオラ“Macdonald"で、アマティのスタイルを受け継いでいます。その素晴らしい楽器のニスは黄色みをおびた赤茶色で、木と解け合っています。そのヴィオラにはメディチ家の紋章と、渦巻きの下部のサイズが異なった頭部が、オリジナルのまま残っています。 これは掲載されている写真では明らかなのですが、印刷された図版では容易に区別することは難しいかもしれません。





第5部

 アンドレア・アマティ、 彼の息子、 アントニウスおよびヒエロニムスらにとって生涯、ヴィオール製作が彼らの弦楽器製作の主な仕事でした。その当時は、ヴィオラ・ダ・ガンバは一般的に使われていましたが、チェロはまだ普及していませんでした。ヒルは、ストラディヴァリのチェロについての言及の中で、 マッジーニとアマティに関しての重要な言葉を残しています。「私は、これまでのマッジーニに関する出版物の中から、チェロ製作者とマッジーニとの関連についての記録を拾い上げてみました。それらの得た情報から判断すると、私はマッジーニが作ったのは5弦ヴィオールなのではないかと思います。すなわち、本来の意味でのチェロは、マッジーニの人生の最後になって、アンドレア・アマティと彼の2人の息子であるアントニウスおよびヒエロニムスによって作られたと考えるのが安全と考えるのです。16世紀かさらにそれより早くに、 4弦ヴィオールが存在していた事は確かです。」
 アマティ一家の作ったチェロは、明らかに寸法に関してマッジーニとはなはだしく異なっていました。それらのチェロはずいぶんと大柄だったのです。そして、 教会が製作者の最も重要な後援者だったという事実によって、我々はこれを説明します。アンドレア・アマティと彼の2人の息子(1540-1630)達の生きていた時代についての言及は、チェロのためのソロ音楽が全く書かれなかったのを最終的に示します。後になって、この生まれたての「チェロ」は、ヴィオラ・ダ・ガンバの地位を揺さぶるようになってきました。そしてヴィオラ・ダ・ガンバに取って代わり、教会音楽の基本的な低音楽器として、または叙唱曲の伴奏楽器として用いられるようになったのです。当時は、まだ第2ポジションまたは第3ポジションを越えるような演奏をすることはありませんでした。
この様な演奏条件の下では、現在となってはとても重要な意味を持つ「弦長の問題」も、当時としてはあまり意味を持っていなかったのです。
 ニコロ・アマティ(ヒエロニムスの息子)は、彼の死んだ1684年まで仕事を続けたと考えられます。「初期において、どのような寸法の楽器が作られたかという、明確な記録は残っていません。ヒル一家のような深い経験を持っている者でさえ、ストラディヴァリの生涯の仕事に関する明確な情報は無いのです。我々は断言できる答えを持っていないのです。」
 楽器に関する観察表を見ていると、あるアマティのチェロが、どうしてもアマティ一家の要素に合っていないということが分かります。その胴体は小さめで31インチの長さで、メンズアが16 3/4インチ(訳者注:42.6cm)です。これはストラディヴァリが彼の大型のチェロにおいて採用した寸法とピッタリ合います。ちなみにストラディヴァリの1690年製の「タスカン」は胴体長が31 3/8インチ(訳者注:79.7cm)、1696年製の「Ayles ford」は31 1/4インチ(訳者注:79.4cm)、そして1701年製の「Servais」は31 1/4インチ(訳者注:79.4cm)です。Gertrude Clark Whittall夫人によってワシントンの議会図書館(the Library of Congress)に寄贈された、1697年製の日付の入っているチェロ「Castlebarco」を見ると、大型のチェロを切って改造したことを伺い知ることができます。すなわち、ストラディヴァリは最初は大型のチェロを製作していたのです。
 この図版は、1615年製のアマティ兄弟のチェロです。図版上では見ることができないかもしれませんが、横板と裏板の楓には、細かなうねった杢模様が入っています。それは現在、Wurlitzerコレクションの一部です。
故フランツ・クナイゼルと関係の深かった、ニューヨークの著名なチェロ奏者のWillem Willeke氏は、ヨアヒム・クァルテットの一員の有名なAlfredo Piatti氏が所有していたアマティ兄弟チェロを手に入れ、長い間弾いていました。その楽器はフランツ・リストが彼に寄贈したもので、Piattiはそれを愛用していました。以来、その有名な楽器(1720年製のストラディヴァリ作チェロ。第21章にてその楽器について述べていますので、そこを参照してください)には彼の名前が付いています。WillekeのチェロはWurlitzerコレクションから入手されました。

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 最高の響板材を使用した、アマティ兄弟作のある素晴らしいチェロを、ハンマの著書「イタリアの楽器」の中で見ることができます。その製作日付は1615年となっています。その木材は最高に吟味されたもので、裏板の楓材は2枚板で、平行に細かな杢模様が力強く入っています。
その楽器は「オリバー」と名付けられています。

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 アマティ家の日常的な商いに付いて考察することは難しいのですが、彼らの知名度が十分に役に立っていたと考えられます。それはその後の歴史的業績を見れば妥当な考えでしょう。彼ら一家以外の人物で、誰がアマティ一家の元で働いたのか、様々な憶測や記述が乱れ飛んでいます。アンドレアには、ニコロという兄弟がいました。彼について1586年まで「仕事をした」と言及されます。しかしながら何の明確な記録のないのです。彼はバス・ヴィオールを作ったといわれています。とにかく、父と彼の2人の息子達は共に働き、それは1580年頃のアンドレアの死まで続いたのです。ヒエロニムスについての重要な出来事をあげると、彼は1576年に最初の結婚をし、子供達(最初の妻との間に5人の娘を授かったといわれています)が生まれました。1580年頃には、アンドレアが亡くなり、1584年にはヒエロニムスは2度目の結婚を行い、5人の娘と4人の息子達に恵まれています。彼の3番目の息子も、1596年に、ごく平凡に誕生しました。しかし後に、その少年「ニコロ」は、アマティという姓に偉大な栄光を付け加える、重要な運命を背負っていたのです。

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 アマティ兄弟の個々の仕事の特徴について、様々な意見が存在します。確かに、彼ら2人の職人は、一体として作業しながらも、それぞれ別の考え方を持っています。彼らは、アントニオの死まで共同作業を続けたと考えられます。そして彼らの仕事は、彼らの名前を不滅の記念碑に打ち立てたのです。ヒエロニムスは彼の2回目の結婚後に独立開業したという意見もあるのですが、その証拠は全く存在しません。従って、ヒエロニムスはアンドレアのもとで働き、アンドレアの死後は、アントニオが死ぬまでずっと彼と共同作業を続けたと考える方が妥当でしょう。

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 彼ら兄弟は半世紀に渡り 共同で作業をしました。そして、アントニオの死の後数年後、ヒエロニムスと彼の妻、および2人の娘がクレモナに蔓延した疫病の犠牲となったのです。1635年のことです。しかし、クレモナのヴァイオリン製作の未来を一身に受けたニコロは、生き残ったのです。




第6部

 元々ヴィオール族は、一般にはイタリアでは国の民族音楽楽器として使われていました。そして、アンドレア・アマティや彼の息子達は、そのような初期のヴァイオリンや、その種の楽器を製作していたのです。そしてそれがかの有名なヒエロニムスやニコロによって、実を結びました。
***
 スコットランド人のピーター・デヴィッドソンは1871年の彼の著書「ヴァイオリン:その構造と理論、そして実用性("The Violin;Its Construction Theoretically and Practically Treated")」の中で、次のような観察結果を述べています。「最も初期のヴィオールは3弦楽器(3)として現れました。そして次第に4、5、6弦楽器へと変化していったのです。ヴィオールには小さくて可愛らしい3弦タイプのものから、大きなヴィオローネまで、多種多様の大きさや形が存在しました。ヴィオールはとても高貴な楽器とされていたために、裕福なほとんどの家庭が、チェスト・ヴィオールを不可欠なものとして所有したのです。(2)チェストやヴィオールによるクァルテットは、ヴァイオリンによるクァルテットと比べても引けを取りません。つまり、2本のトレブルまたはテナー・ヴィオールと2本のバス・ヴィオールによる組み合わせによって、様々な人間の声の領域(ソプラノからバスまで)を演奏することが可能です。
 後になると、ヴィオール族の低音部楽器は、ヴィオール・ディ・ガンバという別な名前で区別されるようになりました。それらは脚の間に挟んで演奏されます。最終的に、ヴィオールという言葉は、ヴィオローネ、コントラ・バス、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンを包括した総称となったのです。このヴィオール族のヒーローとなるヴァイオリンが登場するのは、その後まもなくでした。このようにヴァイオリンが親しまれるようになる前は、ヴィオールが広く愛されていたのです。後に、ヴァイオリンがヴィオールと取って代わったそのいきさつについて、ある現代の著書には次の様に記述されています。様々な楽器による演奏会に対する、著者所見を引用すると:
他の楽器が、より音色の心地よさを求めていた間に、ヴァイオリンはその口やかましい音で頭角を現し始めたのです。彼はまた、ヴァイオリンの事を「活発で程良い大きさのテオルボ」と表現しています。というのは、その頃のヴァイオリンが、叫び声を出して音楽を奏でていたわけではないからです。特に低音域ではそうです。(3)
 チャールズ・リードはイギリスの小説家で、熱狂的なイタリア・ヴァイオリンの信者で知られていますが、彼の著書の中にはしばしば 、以下の楽器のヴィオール族からの変遷を見ることができます。(2)ヴァイオリン、
(3) 小型のコントラバス(これが他のものに先行したかもしれないとも考えられられています);(4)チェロ、(5)フルサイズのコントラバス、(6)小型のテナー、そしてヴィオラ。リードは、当時使われていた初期型の大きいテナーの多くが、ヴィオールを改造したものだったかもしれないと指摘しています。
***
 いったいいつ、どこで、誰によって、ヴァイオリンという新しい楽器が模索され、そして花開いたのか、その疑問は永遠の課題です。それについて我々はあくまでも想像して求めるしかないのですが、「必要性こそが発明の母」なのです。テナー・ヴィオールやヴィオラ・ダ・ブラッチョのような大きな楽器は、膝の上や、または肩に乗せて演奏することが困難でした。そして後に、そのような演奏者の要望に応えるように、より小さな形のある種のヴィオールが実験的に作られ、提案されましたと考えるのが理にかなっているでしょう。その楽器は、横板の幅が小さくなったことによって、肩の上に乗せて顎で支えることにとって、楽器を簡単に支えることができるようになりました。これによって演奏が便利に、また、気楽に行えるようになったのです。既にご存じのように、ヴィオールの特徴はネックの付け根に向かって、横板の幅が狭くなるように、平板の裏板が傾斜していることです。しかし、隆起の付いた裏板が考案されたのです。その側板の幅は全体的に狭く、そして全周に渡って均等幅であるために、胴体の共鳴を阻害させない効果を生み出しました。この様な理由から自然と、幅広な側板のトレブル・ヴィオールも演奏者が顎に挟んで演奏するようになっていったのです。
 現在における主な障害は、過去の著者達によって書かれた興味本位の推論です。そしてそれらの無責任な内容が後世に伝わってしまったのです。それらの間違った情報は払い去ることによって、新たな光が見えてくるのです。この推論をさらに進めてみましょう。脚の間に挟んで演奏するヴィオラ・ダ・ガンバは、演奏上の無理がないために、すぐに形態が変わっていく必然性はありませんでした。その結果、 テナーとヴァイオリンが登場してからもずっと、使用され続けたのです。ヴィオールにはフレットがあり、また弦も7本を越えるものさえもあったために、演奏は低いポジションのみの利用にとどまっていました。ヴァイオリンが最初に使われ始めた時にも、第1ポジション以外は使用しなかったということは容易に想像できます。
 ヘロン・アレンは次のように言っています。「ヴァイオリンの現れた初期において、それまでは無謀にも思えていたB音よりも高い音階の演奏が、技術のある演奏者達によって試みられるようになりました。そのような演奏音階の変化についてGallay氏は、ヴァイオリン独奏会において聴衆はざわめきながら、「C音を!」と高いポジションの演奏を求め、その超絶技巧が無事達成させられると、大喝采を送り、しかし、もしも失敗した場合にはあざ笑ったと述べています。」
 John Playfordによって1683年、ロンドンで出版された「A Brief Introduction to the Art of Descant(ソプラノ音色の、瞬く間の浸透)」の中には、ヴァイオリンの現れた当時は、フレット無しの楽器は普通ではなく、やはりヴァイオリンにおいてもフレットの是非が問われていたということが書かれています。「もしもヴィオールのような6つのフレットが、あなたのヴァイオリンの指板にあったのならば、その演奏はより簡単になり、また正確な音程を出せることになることは明らかなことです。」しかし、話はそう簡単なものではありません。それでは初心者が悪い音感を持ってしまう可能性が非常に高くなってしまうからです。フレットによって、確かに直接的で確実な音階を弾くことはできます。ところが、それでは完璧な音程を生み出すための音感が育たなくなってしまうのです。「ヴァイオリンという楽器が確立したのは、16世紀の終わり頃であろうということは明白です。そして、作曲技術の高度化と共に、低音域から高音域までを求められるようになったことは、ごく自然なことだったのです。作曲家達は、演奏者側のより難しい技巧を要求するような曲を作曲しました。そして高音域の限界はますます広がっていったのです。
 一方、低音域においても、ガスパロ・ダ・サロによって作られ、Dragonettiの演奏でも知られる巨大な3弦バス等によって、低音域も広げられていきました。
 より高い高音域を得るために、より小さい形のピッコロ・ヴァイオリン(violino piccolo)が作られ、1608年にはモンテヴェルディはその楽器を利用した曲を作っています。前の章で言及されたように、木管楽器であるコルネットや、ヴァイオリンの小型版であるキットまたはポシェットは、より高い音域を出すために用いられました。
George Dubourgの1836年の著書「ヴァイオリン(Violin)」にはこの様に記されています。:16世紀の終わりに向かって、ヴァイオリンという楽器は、「piccoli violini alla Francese(フランスの小型ヴァイオリン)」という名前で、いくつかのイタリアの楽譜において見受けられるようになりました。これは、ヴィオールやヴィオラが、イタリアではなくフランスにおいてヴァイオリンの寸法に改良されたということを示しているでしょう。しかし、これだけで答えを急ぐべきではありません。それらと同じくらい初期にはイタリアでも、似たような物が作られていたこと考えられているからです。従って、それらのpiccoli violinや小型ヴァイオリンが、ヴァイオリンの原型そのものであったと考えることには無理があるのです。」
 そして、 脚注は続きます・・・。「フランス人の著者Mersennesは、 全てのヴァイオリン、ヴィオール族の楽器をbarbitonという用語として記述していますが、その中の一つについて「非常に小さくて珍しいbarbiton」と表記しています」。この後者の楽器は、フランスのダンス教師が、楽器のケースまたはさやをポケットに入れておけるようにと、そのような小さな寸法に発明されたものなのです。それはイギリスではキットと呼ばれ、今のヴァイオリンの起源であるとされました。しかし、それは少々強引すぎる結論ですが、この種の楽器が起源である可能性はあるでしょう。それは"piccoli violiui alla Francese"だったのでしょうか?
 3世紀以上も前に、Schultzeというドイツ人音楽家の一家は、ラテン語のプレトリウス(Praetorius)という名で名声を博していました。現代において最も有名なのは、多くの作曲やその他の著書で知られているミヒャエル(1571-1621)の書いた“Syntagma musicum"で、包括的、歴史的な著書です。それらは全4巻が計画され、1615年から1620年の間にその内の3つが発行されました。結局それらの仕事は完成しませんでしたが、その内の第2巻は最も重要で、当時使われていた楽器についての重要な内容を含んでいます。ここにある再版された著書(1620年と記載されています)の表紙には、擦弦楽器の演奏におけるポジショニングについての方法が示されています。その著書の中の図版21は、その時代の弦楽器の中における様々なヴァイオリンの種類が画かれている興味深いものです。そこには小さな「ポシェット(図1と2)」、オクターブ高い音域の「ディスカント(図3)」、4度高いヴァイオリンで、現代における子供用ヴァイオリンのような胴体の「ヴィオリーノ・ピッコロ(図4)」、普通の「ヴァイオリン(図5)」、大型の「テナー(図5)」そして現代の小型のチェロの原型の、大型の「チェロ(図6)」が画かれています。それらの図の指板からは、高いポジションでの演奏は不可能と考えられます。当時のヴァイオリンがどのような形をしていたかが分かり、とてもためになります。
 この著書の中から、幾つかの興味深いことを抜粋してみましょう。John Broadhouseは元々1864年に発行された「Die Violine, ihre Geschichte und ihr Bau(ヴァイオリン、その歴史と製作)」と題せられるHyacinthe Abeleのドイツ語の本を翻訳しました。そしてNiederheitmannの所見も付け加えて出来上がったものが「The Violin : Abele & Niederheitmann」という著書です。このAbeleの著書中において(プレトリウスからの抜粋)次のように述べられています:「元々のヴァイオリン(Geigen)はヴィオラ・ダ・ガンバ(1)とヴィオラ・ダ・ブラッチョ(2)の2種類に分類されます。前者の「ガンバ」はイタリア語で膝または脚を意味する言葉で、その名前はそれがその位置で支えながら演奏することに由来しています。このガンバは後者のブラッチョに比べるとより長い胴体と長いネックを持つことができます。そしてその長い弦長から、心地よい響きを生み出すのです。これらの2種類は街の演奏者達にヴィオラ・ダ・ガンバは「ヴィオール」、そしてヴィオラ・ダ・ブラッチョが「ヴァイオリン」または「ポーリッシュ・ガイゲ(ポーランド・ヴァイオリン)」として区別されました。たぶん、この種の楽器が最初にポーランドから来たのか、それとも、良質の楽器がポーランド製だったからなのかもしれません。
 AbeleとNeiderheitmannの著書にはプレトリウスについての内容を見ることができます。そこには次のように書いています。:「プレトリウスの作品は非常に数少ないのですが、それについては17世紀初頭のドイツの非常に豊富な擦弦楽器の中において推測することができます。そのヴァイオリンは、ヴァイオリンという楽器が後世に達するであろうその高貴な音色を併せ持っていなかったかもしれません。この理由はまだその楽器が構造的に不完全であったことの他、かなり低いピッチでチューニングされていたこと、そして質の低い弦が利用されていたことなどによります。あるいは演奏者側の技術的な事の方が原因のだったのかもしれません。」
リードは弦楽器の発達の順番として、テナーとヴァイオリンがチェロに先行したとしています。そしてバスは、確実に、ガンバの影響を受けていると言っています。
 当時の様々なタイプのチェロを見ることによって、チェロの進化の変遷を知ることができます。ヴィオラ・ダ・ガンバがまだ使い続けられていたその頃、初期の頃のチェロは様々なタイプのものが作られていました。その内のいくつかは、現代のチェロのように改良され、またいくつかは、ネックの付け根に向かって傾斜の付けられている、オリジナルの平らな裏板が付いています。また、隆起の付いた裏板のものもあります。
 コントラバスだけがヴィオールの形(多くが平らな裏板で、なで肩の形)のままで残っていて、楽器の演奏者にとってかなり身近な存在です。
 今回述べました内容は、「アマティ一家」というタイトルから多く逸脱しているように思われるかもしれませんが、それらは無関係ではありません。なぜならば、今回の内容は、アマティ一家(初めの記事で言及されるように)の時代における主要な出来事であったからです。それはたぶんアンドレアの時代であり、また彼らの2人の息子達の初期の頃とも言えるからです。