馬毛と松ヤニ

2011年12月22日 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗

松ヤニの顕微鏡撮影

 松ヤニはその種類(各製品による違い)や付け具合によって、楽器から出る音色や弦の引っかかり具合等がかなり違うことは知られています。楽器のセッティング状態や弓の性能、または演奏者の好みによっても感じるものは様々なので、どの松ヤニが最良なのかを議論することはナンセンスです。今回は馬毛にどのような感じで松ヤニが付着しているのかをデジタルマイクロスコープ使って、実際に観察してみました。

 

デジタル マイクロスコープ

 マイクロスコープ(顕微鏡)は大きく分類すると「光学顕微鏡」と「デジタルマイクロスコープ」に分けられます。「光学顕微鏡」とは子供の頃理科の実験で使った「覗き見る顕微鏡」です。本格的な製品はもっと大がかりで、オプション装置としてCCD撮像装置やモニタなども装着していますが、基本的には理科室にあったような、光学レンズを組み合わせて作られている「顕微鏡」と考えても良いでしょう。
 一方「デジタル マイクロスコープ」とは、大ざっぱに言えば小型ビデオカメラで撮影した映像をそのまま大画面モニタに表示して観察する装置です。光学顕微鏡のように接眼レンズを覗き込んで観察をしません。光学顕微鏡がレンズの組み合わせのみで画像を拡大するのに対して、デジタルマイクロスコープは対象をCCDで取り込んでからデジタル処理して観察するという比較的新しい技術の顕微鏡なのです。

 光学顕微鏡とデジタルマイクロスコープにはそれぞれ特徴があり、目的によって使い分けられています。今回の私の観察では、KEYENCE社のデジタルマイクロスコープ「VHX-500」を使っています。デジタルマイクロスコープの特徴は、「深い被写界深度撮影」ができるということです。顕微鏡撮影(またはマクロ撮影)をしたことがある方なら実感していると思いますが、拡大率が上がるほどピントの合う範囲が極端に薄くなります。被写体のほんの一部分にしかピントが合わなくなってしまうのです。これは顕微鏡撮影をする上で深刻な問題なのです。デジタルマイクロスコープでは様々な仕組みによって、「高深度撮影」が可能となっています。

 ちなみに「電子顕微鏡」とはここで述べている「デジタルマイクロスコープ」とは仕組みが全く違います。「電子顕微鏡」は個人では導入不可能なくらいのかなり大がかりな装置で、観察サンプルを小さくカットして、真空状態にして電子ビームを当てて画像処理をする顕微鏡です。拡大率がとても大きく、鮮明な画像が得られる反面、観察の融通(小回り)が利かないというデメリットももっています。

デジタルマイクロスコープ

 

馬毛の表面

 松ヤニの付着具合を観察する前に、倍率1000倍で、馬毛の表面の状態を観察してみました。

新しい馬毛の表面

 表面に鱗状のキューティクルがあることがわかります。ちなみに弓毛の摩擦力はこのキューティクルと弦表面との引っかかりで生じると説明している人がいますが、それは全くの間違いです。その証拠に、松ヤニを付けない馬毛ではほとんど摩擦力は生まれません。また、下写真のように、キューティクルが磨り減ってしまった馬毛でも、松ヤニが付いていると大きな摩擦力を生むことから、その反論の説明がつきます。

 

古い馬毛の表面

 弓毛として使って、古くなった馬毛の表面です。キューティクルが摩耗して消えてしまっています。この摩耗がさらに進むと、毛が切れてしまいます。この写真にはほとんど写っていませんが、松ヤニの粒子や汚れの付着も観察することができます。

 

人毛の表面

 参考に、人の髪の毛の表面も撮影してみました。人毛は馬毛と比べて半分くらいの細さです。しかしキューティクルの面積は大きいことがわかります。

 

松ヤニの塗布量と馬毛表面の粒子の状態

  かなり多くの方が、「松ヤニは多く付けるほど摩擦力が増える」と勘違いしています。しかし松ヤニは少なすぎても、そして多すぎても摩擦力が落ちてしまいます。そこで松ヤニの量と、付着状態の観察をしてみました。

松ヤニ無し

 上写真は、毛替えしたばかりで、松ヤニがまだ付いていない状態の馬毛です。倍率が175倍なので、表面のキューティクルは見えずに比較的ツルッとしています。この状態で楽器を弾こうとしても、摩擦力がほとんど無く、弦の上をツルツル滑るだけで音は出ません。

 

松ヤニ適量

 上写真は松ヤニを適量付けた状態です。松ヤニの粒子が馬毛に点々と付着しています。この状態(顕微鏡の拡大写真)だと松ヤニ量は少ないように感じますが、実際に弓毛を肉眼で見ると、松ヤニがきちんと適量乗っていることがわかります。これらの松ヤニの粒子が弦の金属表面を引っかけて、大きな摩擦力を生んでいると想像できます。

 

多すぎる松ヤニ

 次は松ヤニを多く塗りすぎている場合の馬毛の状態です。まるで雪が降り積もったように、馬毛全体が松ヤニの粒子で埋まっています。肉眼で弓毛を眺めても、真っ白に粉っぽくなっていることがわかります。このように、馬毛に必要以上に多くの松ヤニ付着していると、松ヤニの粒子が滑ってしまうのです。そのために大きな摩擦力がうまれません。

 

松ヤニの種類と粒子の大きさ

 次は松ヤニの種類によって、粒子の状態は違うのかを観察してみました。ちなみに観察に利用した松ヤニは、当工房で普段使っている「クロネコ」と「ラーセン」の2つです。これまでの経験では「クロネコ」は中くらいの粗さ(細かさ)で、その音色には少し明るい感じ(ザラザラ感)を含んでいます。一方「ラーセン」はとても細かな印象です。とても細かいのに、大きな摩擦力を感じる松ヤニです。

クロネコ

 

ラーセン

 「クロネコ」と「ラーセン」では松ヤニの粒子の大きさが全く異なります。私もここまでの差があるとは想像もしていませんでした。それぞれの松ヤニは、同じような方法と力加減で毛に塗りました。ラーセンの松ヤニの粒子の細かさと、そしてその均一性は、これまで演奏で感じてきた「細かさ、繊細さ、細かいのに摩擦力は高い」という感覚を見事に表しています。一方「クロネコ」の少しザラザラした感覚は、時々見受けられる大きな粒子が要因となっているのでしょうか。
 余談になりますが、下写真の馬毛の直径が小さいのは弓の先端側の馬毛を観察したからです。弓のフロッシュ側は馬毛の根元側、そして弓先側は馬毛の先端となる向きで使われます。馬毛の先端側は、根元部分よりも若干細いのです。

 

まとめ

 今回初めてデジタルマイクロスコープで馬毛の表面や松ヤニの粒子の状態を直接観察して、さらに撮影することもできました。こうして観察することで、これまでの感覚と実際の視覚情報が結びつき、さらなる考察や疑問へとつながります。このような観察機材を個人で導入することは、経済的にとてもきついことです。しかしそれらの努力や好奇心が、研究だけではなく実際の調整へのヒントとなり、実際の私の音として現れると信じています。

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