弦〜その変遷 Ephraim
Segermann著
Ephraim Segermannの眼で見た、弦の歴史とその秘密。
翻訳 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗
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- ガット弦
- ガット弦の製造方法のいくつかは、19世紀の中世からずっと伝わっている。それらには羊の腸が用いられると書かれている(羊は雄羊や、去勢した雄羊がよく使われた)。そしてその腸を湿らせ、擦る事により、すべての弱い付着物を取り去り、非常に強く薄い膜だけを得ることができる。肉屋はこれをソーセージに使い、弦の製作家はこれで弦を作ったのだ。
弦製作家は、2つの吊り金具の間にこの膜状物質をぴんと張る(この時これは、とても素晴らしい繊維に見える)。この仕事は、最終的な弦の直径に大きく関わってくるのである。それから一方の金具の方から、もう一方へ線を折り曲げ、それをよじりながら円筒系の形にしていくのだ。これか乾いて滑らかに磨かれると、一般的な(平らな)ガット弦となるのである。
しかし、そのよじり方の具合いや、またその他の行程についても、詳細には文献として残っていない。そこで我々は
Bass String(訳者注:以後これを低域弦と呼ぶ)における弾力性を研究することによって、それらの行程についてより深い推測を行った(理論的にも、技術的にも)。
湿っている弦は柔軟性が増すので、ガットに縒りを加える時、より一層縒りを与えることができる(ガットを吊具に掛けて、互いにぴったりと密着するように縒り合わせる)。するとその様にした弦は乾燥したときに、細くすることができるのである。我々はその様な弦に「ハイ・ツイスト」と名前を付けた。より一層の柔軟性がほしいならぱ、2本または数本のハイ・ツイスト弦をロープ状に縒り合わせれぱ良いのだ。弦の柔軟性を上げるためには最高の方法であるこの様なハイ・ツイスト弦やロープ状弦は、最終的に2から3回縒り直すことによって仕上げられる。そうすることによって、それはいつも最大のねじれを持つのである。この様な方法によって作られた弦は、引っ張りに対する張力が落ちてしまう。しかし中低域においては、この位の張力の方かちょうど良いのである。
乾いたときに、磨かれて仕上げられるタイプの弦に付いて触れてみよう。磨くという操作は、ただ単にきれいに、滑らかにするということだけではなく、弦の振動も向上させるのだ。磨きの操作を行なわなけれぱ、弦の表面の繊維は壊れてしまい、それに伴って張力は減少する。このことは楽器の高域においてだけ影響してくる間題なのだ。
ガット弦への重量の負荷は、その回りに金属の針金を巻き付けることによって行う。中心綿となるガットは2つの吊り具の間にぴんと張られ、回転される(それらの2つの金具は2つとも機械的に連結されているものと、片方だけが機械的に連結、もう片方は自由なベアリングにつながり、弦によって自由に回転できるものがある)。次に針金が引っ張られながら、中心線の回りに巻き付けられるのだ。我々はその様にしてできあがった弦に、「巻線」、「カバー」または「オーバースピン」という名を当てはめた。もしも巻線がお互いにふれあうくらいに詰まっている場合、その様なタイプは「クローズ巻線」と呼び、隙間を開けて巻いているものは「オープン巻線」とした。これまでの文献を見ると「ハーフ巻線」、「ハーフ・カバー」または「ハーフ・オーバースビン」と書かれている。最近の弦製作者達は金属の板状の巻線を好んで使うようだ。そのフラットな巻線の下には全面にわたって、プラスチックでできた繊維状のものが敷かれている。
15世紀以前に弦の製造は、おそらく演奏家が自分自身でやったか、楽器商が独自で行っていたと考えられる。15世紀にはいると交通手段が安全に、早く進歩したために、広い地域まで製品の供給が行えるようになり、弦専門の職人が現れて弦の製作を行い始めた。この様に以前には、一部の演奏家や楽器商しか作り出さなかった弦が、素晴らしいことに、一般の人々にも行き渡るようになったのだ。15世紀の終わりになる頃には、これらの弦はより進歩し、解放弦において約2オクターブ出ようになり、楽器の形にまで影響を及ぼした(それまでの音域よりも、約半オクターブ出るようになった)。すなわち駒とナットが平行に立てられるようになったのだ。我々はこの進歩が、低域弦の「ハイ・ツイスト化」によるものと考えている(柔軟性の増加は、音域の拡大を生む)。
我々はハイ・ツイスト弦が初期に16世紀から先は、おそらく弦製作者たちはあまり注意もせず、よりたくさん巻くことばかりを考え、太い弦を作っていた。この事はAngelucci
(1765)によっての記述からわかる。 16世紀に入って数年のうちに、いろいろな楽器で、さらに半オクタープ広い音域が盛んに使われるようになった。そしてその音域は、以後300年間に渡って使われたのだ。我々はそれが低域弦の「ロープ状」によってなし得たものだと考える。これらの弦は初期にミュンヒェンにおいで生産されたが、16世紀を通して、非常に高価だったために一般に普及はしなかった。
ボローニャにおいてそれらが生産され始めると(おそらく1560年以後)、その値段は急速に安くなり、あっという間に普及していった。
イギリスではそれらのロープ状ガット弦を、"Katlyns" "Cattelins"
"Catlings"または "Catlins"などという呼び名で呼んだ。その語源は、船の碇の太くて柔軟なロープを結びつけるための"cat's
head"(猫の頭)からきている。"Catlins"も子猫を意味する言葉で、これは「猫の腸」と関連している。17世紀になって、これらの弦は
"Venice Catlines"または "Venice Catlins"と呼ばれるようになった。この
"Venice"という言葉は ボローニャから船でヴェネツィアを通ってきた本物を、偽物と区別して呼んだ言葉である。17世紀も少したつ頃になると、フランスの弦製造会社がこのタイプの弦を作り出した。そして半ばになると、イギリスの演奏家達がこれらの
"Venice Catlines"弦を使いだし、それまでよりもより低く、2オクターブの音域を持つようにチューニングされた。Maceのフレンチ・リュートは4〜5オクターブの音域を持つが、そのもっとも低い音域に
Venice Catlinsを使った。またTabot (1694年)はヴァイオリンのD線とG線に、フランスの弦製造会社の「Lyons(ライオン)」と呼ばれていたものを使った。
"Lyons"と"Venice Catlins"では見た目が異なっており、Venice
Catlinsはその表面がつるつるしている。これはLyonsがごつごつしたままの製造方法だったのに対して、Venice
Catlinsは他のどんなガット弦よりもよく磨かれていたからだ。18世紀になると"Catlin"や"Catling"という言葉は、「良く磨かれている細い弦」という意味を持つようになり、ロープ状弦という意味は忘れられた。なぜなら、もうそれは特別なものではなくなっていたからである。
オーバー・スピンの低域弦は1660年頃から使われだし、それはイタリアにおいて発明されたものだった。それが17世紀から18世紀にかけて、国際的にどう流通して行き、そして各々の地域の楽器製作者や、楽器商達が巻線を使いだしたのか、我々はその確証を持たない。
表面がフラットな普通のガット弦は、既に16世紀から"Ganzer"として呼ばれ使われていた。これらの弦は太さが均一でなく、磨くという行為はそれらの欠点を隠すという目的に過ぎなかった。その頃ミュンヒェンでは本当の意味で磨かれ、丁寧に縒り合わせたガット弦か作られていた。この弦はとても高価だった。1542年のイギリスの"Menekins"(おそらくミュンヒェン産という意味)の値段表を見ると、"bressells"(おそらくブリュッセル産という意味)の6倍を越えているのだ。そのミュンヒェン産の弦はリュート用に売買され、ブリュッセル産の物はヴィオールに使われた。
偶然にも同じ頃の1553年の値段表が見つかっており、それを見ると、"Katlynls"の値段は"Mynykins"の値段の5倍以上と書かれている。
1600年には平たいガット弦は"gansars"と呼ばれ、まだ使われていた。しかし、それは改良が加えられたにも関わらず、まだリュートの最も高い音域にはまだ役不足であったと我々は推測している。するとローマで平らなガット弦が作られるようになった。その品質と価格は次第に好評となり、20世紀末まで供給されることになる。17世紀頃からフランスの演奏家達は、いつもローマの細い弦と、フランスの太い弦を指定して使っていた。しかし"miniken"という言葉は、英語の中に定着して残ったのだ。それか「細いガット弦」という意味で残ったのか、それともミュンヒェンからイギリスに、大量の弦が輸入されていたための反映によるものかどうかははっきりしない。
19世紀の半ばを過ぎる頃になると、磨かれていないヴァイオリンのE線が現れた。それは標準ピッチが次第に上がり始め、弦が切れる事が頻繁になり始めたとき、そのとても強い弦は非常に有効であったのだ。良質のガットを選び、丁寧に巻かれたそれは、磨かれてはいたが雑であった一般的なものと比べて優れていたのだ。明白ではないか、その弦は19世紀の終わりになって、標準ピッチか下がった頃から使われだしたと考えられる。しかしまだ完成されていたとは考えられない。この頃はまだガットそのものが使われていた。通常の製造方法では、腸は引き出されると、全ての余分なものが取り払われると(内部からも、表面からも)、刃渡りの大きなナイフで、帯状に切られるのだ。しかしガットそのものを使う方法では、この行程は省略される。その様な弦は20世紀の初期までまだ売られていたか、金属製のE線が出てきたことによって消えて行ったのだ。ガットのE線の市場は小さくなってしまった。クライスラーがガットのE線を使っていた頃には、まだ高品質の要求に答えていたのだ。裁断しないで作るカット弦は、明らかに品質が悪かった。
- ヴァイオリンの低域弦
- 16世紀の終わり頃から、弓を使う弦楽器にロープ状ガット弦が使われはじめ、魂柱もその影響で、とても強くなった。G線の音は澄んだ音はしていたが、わずかにピッチがはっきりとしておらず、ふらつくような音程をしていた。ヴァイオリン用に書かれた最初の曲(1589年のIntermediまたは、1597年のGabrieliによるフィードルと管楽器編成のための曲)は、その音の力強さで神を讃えている。しかしそれは比較的新しく、それ自身の味わいはない。Praetorius
(1619)はその様な力強い音は好まないと、述べていた。Monteverdiも、少なくともオルフェオの中においては、その様な音は避けていた。しかし17世紀も進むと、ソリスト達や作曲家達は、次第にその音を効果的に使うようになったのだ。その荒々しい音や、コントラバスの質の向上は男性的に強くなり、その様な音はイタリアの文化的土壌にとけ込んで、イタリア人にとても好まれた。この低域弦の発達によって、ヴァイオリンが他の楽器の伴奏に使われるということも起こり始めた(Leopold
Mozartは、チェロの独奏にヴァイオリンを使う習慣は、チェロの音を奥に引っ込めてしまうといつも言っていた)。
ヴァイオリンのG線の太さは、Stradivari (1700)の時代に2.5mm強であった。18世紀前半のイタリアの絵画を見ると、E綿からG線にかけて、色の変化はないが、その太さが年々太くなっていることを見ることができる。オーバースピン弦には、いつも銀または銀メッキの銅が使われていた。そのためチェロの絵においては、しばしばC綿にその色の変化を見つけることができるのだ。クローズド・オーバースピンのA線は、ガットだけで作られたそれよりも細く、しかも5度低い音を出す。そのためこのような弦の発達により、以後の絵にはこれ以上の弦の太さの増加は見られなくなった。Leopold
Mozart (1756)はたぶんガットだけで作られている弦と、G線にはオープン巻線を使っていたが、弦が次第に太くなっていくことについての記述も残っている。
ガットだけの弦は、19世紀の後半までしか生き延びられなかった。Gunzelheimer
(1855)は、純ガット弦のG線を強く支持していた。しかしコントラバスにおいては銀線を巻かない太いガット弦がよく使われ、それは20世紀になるまで続いたのだ。
1660年にイタリアにおいて、金属線を巻いたオーバースピン弦が生まれると、それはヴァイオリンの低域弦として使われ始めた。そしてそれはその低域ヴァイオリンの音域を、より低い方へ引き下げたのだ。このようにしてその楽器は「リトル・ヴィオローネ」または「ヴァイオリン・チェロ」としての名前を獲得したのだ。そしてそれはバス・ヴィオールにも低減音の増強を要求していった(i.e.バス・ヴィオールを指名するときには”Basso
di Viola”と呼ばれた)。フランスでオーバースピン弦は初め、バス・ヴィオールに新しく設けられた第7線に使われ始めたが、すぐに他の弦にも使われていった。この事については、彼らがその弦の美しさからそれを使いだしたというより、実際の音域に対する要求から自然にそうなった物であろうと考えられる。フランスのヴァイオリンもまもなくそれに従い、18世紀のほとんどの間、G線は金属による「クローズ巻線」であった。Brossard
(1712)とLaborde (1780)によるり、D線はたいてい「オープン巻線」が使われていたと示されている。オーバースピンのG線について書いている、18世紀のドイツの著者達
(Mejer,1732 Quantz,1752 Lomein,1744)は、G線以外のオーバースピンについては触れていない。1690年のイギリスにおいて、Tablot
MSはバス・ヴィオールやバス・ヴァイオリンの低弦においては巻線が使われているのに対して、ヴァイオリンではまだ純ガット弦しか使っていないという事を指摘している。
オーバースピンのヴァイオリンのG線は、より輪郭の強い音を与える。その理由は、純ガット弦に対してオーバースピン弦は、高倍音まで豊富に持っているからなのだ。その様なオーバースピン弦はより細く、より不純倍音を無くすようにと試みられて行ったのである。それらによって演奏は滑らかになり、また素早いレスポンスを示すようになったため、音色は幅を持つようになった。1700年頃のフランスでは、滑らかな音が非常に好まれていた。そのためD線にはオープンタイプの巻線か使われ、G線のクローズド巻線とA線のガット弦との間で、最も滑らかな音を出していたのだ(このタイフの弦楽器は今日において、Norwegian
Hardanger fiddleとして見ることができる)。ドイツではG線には巻線を、D線には純ガット弦を使っていた。従ってD線の滑らかさを壊さないために、G線の巻線はおそらくクローズド巻線であったと考えられる。18世紀の終わりになってやっと、次第に低い弦からオープン巻線が使われるようになった。
この事で、演奏方法の中で重要な物の一つである、ポルタメントが行えるようになったのだ。指や弓をずらすという行為をオープン巻線で行うのは、それを平らなガット弦や、クローズド巻線で行うのよりも非常に難しい。しかしクローズド巻線や純ガット弦では、弾いた直前の音がすぐにぼやけてしまうのだ。
Ricatti (1767)の著書によると、オーバースピンのヴァイオリンのG線は(平ガットのD線を含む)、18世紀の半ばごろから、北イタリアにおいては標準となっていたようだ。但しそれがオープンであったかクローズドであったかははっきりしないが。
20世紀の半ばごろの最大の進歩は、ヴァイオリン族の巻線の思い切った変革にある。それは、丸い針金を巻いて行くと表面にはうねができる。しかし表面が平らな弦は、その分弓の毛との接触が大きく、素早いレスポンスを示すのだ。そこで丸い針金は凹凸を削る事によって、平らな表面を得る方法が取られた。しかしその後は、初めから平らな金属製の帯を巻く方法へと変わった。この平巻線は、弦がチューニングされて、中心のガットが細くなったときでもそれ以上は延びない。それはとても素晴らしい事なのだ。
プラスチックの繊維や帯でできた薄い布も中心線と巻線の両方により影響を与えられた。延びない金属の巻線は水分にも強いが、それは各々を強く押し付けることによって、そしてまた、ワックス状の物質を間に入れる事によって作り出された。この様にして中心線であるガットを外気から隔離することで、安定した素晴らしいチューニングが実現できたのである。進歩はさらに続き、プラスチックの繊維や帯でできた布が、中心線と丸い巻線(その後すぐに平になった)との間に入れられるようになった。そのプラスチックは、巻線とガットとのグリップを無くす働きをするのだ。そうすることで平らに削った巻線は、初めから平らなリボンを巻いたそれと同じ位の、チューニングの安定性を持てるのである。今日ではこれら両方の種類の、平巻線を巻いた弦が一般的となっている。一方で、中心線に金属線や、プラスチック線も使われている。
これまでの事を要約すると、16世紀後半から現れたヴァイオリンには、平ガットのE線が使われ、A線には平ガットかハイ・ツイスト弦、D線とG線にはハイ・ツイスト弦かCatline弦が使われた。この弦の構成は17世紀を通して、18世紀に入るまで続いた。18世紀の間のフランスとドイツでは、Catline弦のG線は、次第にオープン巻線のG線にその地位を取って変わられた。その世紀の初めにフランスでまず、普通のガット弦のD線がオープンタイプに変わり、次に普通のタイプのG線かクローズドタイプとなった。半ばになると、イタリアにおいてCatline弦のG線がクローズド巻線に変わったのである。そしてその世紀の終わりになる頃には、ヨーロッパではイタリアの弦を全面的に使ったのだ。平ガットのE線とA線、そして銅線や銀メッキ、銀縁を巻いたクローズドタイプのハイ・ツイスト弦であるD線とG線の組み合わせは、19世紀を通して続くのである。20世紀に入って、ガット弦は初めて金属弦へと置き換わった。同じようにハイ・ツイストのD線もアルミニウムの巻線に変わった。20世紀の半ばになって、リボン型の、または研磨型の平タイプの巻線か現れ(プラスチックの中敷布を含む)
、それはあっという間に以前の巻線に取って変わった。それらはスチール製やプラスチック製のA、D、G線を、ガット弦と同じくらい良質なものへと引き上げたのである。そしてそれは今日に置いて、全く当たり前となっている。
- ヴァイオリンの全てのスチール弦
- 16世紀も終わりの頃、ヴァイオリン(多かれ少なかれ、我々が知っている物とは異なる)が登場した。それは新しいタイプの、とても強い弦を張っていた。それは最初に、それまでにあったピッチを撃ち破ったのだ。17世紀に入ると、イギリスのシターンやオルファリオン(Orpharion)の様な新しい小さな楽器は、離れ技のような進歩を続けた。そして次にキタローネ、アーチリュート(archlute)そしてヴァイオリンの様なガット弦を張った様々な楽器が進歩していった。
Praetrius (1619)はヴァイオリンについて、彼が書く必要もないくらい、ヴァイオリンは知れ渡っていると書いてある。しかし彼は、もし弦が鉄製か、真鍮製でできるのなら、そればとても美しくまた柔らかい音を出すであろうと、付け加えていたのだ。その頃のヴァイオリンの音は、Heinrich
Schutz(1621年ニュルンベルクの弦製作者で、スチール弦は全く作らなかった)のように誉め讃える者も居はしたが、現在からすると弦のせいで不明瞭であった。
その頃から19世紀の終わり(産業化の進歩で、強いスチール弦が作れるようになった。またそれに伴い、ピアノが完成した)までは、金属弦を使った楽器で、ガット弦のそれと同じくらいのピッチに合わせられるような物は全くなかった。そして「ピアノ線」が発明された。Flesch
(1923)は、20世紀の始まりにおいて、2人のヴァイオリニストが自分自身の汗のために悩んでいたが、金属線の(ピアノ線)のE線を使うことを考え出し、聴衆の前で演奏した、と書いている。この方法は、第1次世界大戦の間に普及して行った。そしてガットのE線の需要は次第に衰えて行き、20世紀中頃には消え去ったのだ。Fritz
Kreislerはその様な中で、ガットのE線を使い続けた最後の演奏家であった。
以来、金属のE線には色々な種類の物が登場した。そしてステンレス、クローム、フラット・アルミニウム、金メッキなどの弦や巻線が増えていった。金属線一の問題点は、指からの汗による腐食であった。
FleschはスチールのE線や、アルミニウム巻きのスチールA線や、アルミニウム巻きのガットのD線の増えて行くことを歓迎した。しかし彼はA線のイントネーションがまだ重々しいということを言っていた。
Fleschは金属線のD線やG線については全く触れていない。それは20世紀の半ばになって初めて、柔軟性のある金属の中心線が作れるようになったからであり、当時にはまだ無理だったのだ。この様に全ての弦が、金属線の組み合わせでできるというのは、非常に歓迎できることだ。
- 張力の移り変わり
- 18世紀中期から20世紀初頭にかけて、弦には共存する2つの基本法則があった。1つめは、全ての弦はおおよそ同じの張力を持つということで、もう一つは、G線が最も低い張力を持つということだ。それらはピッチか上がり、張力が増加していったときにおいても守られた。1750年より前は、張力が等しいという事が前提であったのに対し、20世紀の前半からはそれが変わってきたのである。
弦を等しい張力で張るという事については、最初にMersenne (1635)によって指板を持つ楽器の基本原理として、はっきりと述べられている。Stradivari(1700)はテオルボギター(theorboed
guitar) の弦を指定している。彼は最低弦の太さを記述したのだ(太さは2.9mmで、ロープ構造の弦か好ましく、もしも硬いガット弦の場合は直径2.6mmとする)。それはヴァイオリンのG線と似ている。彼の他のテオルボギターの弦に対する指示は、次第にヴァイオリンのE線を、そのギターの4オクターブめに使うようになっていった。同じ張力の時、ヴァイオリンのE線の直径は、硬いガットのG線の30%に当たる。それが張力を変化させることにより、36%になったと書いてある。すなわちG線か2.6mmである時に、E線が最初の状態で0.77mmの細さだったのが、張力を変えることで0.93mmに太くなったことになるのだ。これまで我々が見てきた弦楽器の起源や、ギターの改良を見てきた経験からすると、0.77mmという太さはほど良いもので、それが0.93mmを越えると、好ましい太さではなくなるのだ。この事は我々に、Stradivariのヴァイオリンにおける弦の張力の関係が、一定であろうという結論を導いたのである。1690年にベネツィアのDi
Colcoは、弦の選択は、耳によるものよりも、その張力を調べて行う方がより簡単であるということを述べているのだ。1767年頃イタリアにおいて、張力が低い方へと変化し始めた。その中で、Tarhni
(1743)だけは独特のハイピッチを使っていた。しかし彼もまだ張力を等しく保つという法則の中にいたのだ。
Brossardは1712年の彼の論文の中で、もしG線がただ単にガットだけによってできているのなら、それの”grasseur”はD線のそれの2倍位で、もしそれが銀によるオーバースピンになると、D線よりも少し大きい程度である、と述べているのだ。同じようにそれはD線にも当てはまり、それがガットだけならその
"grosseur"はA線の2倍だが、しかし、もし銀のハーフ・オーバースピンにしても普通、A線のそれより大きくはならないのだと述べている。我々がMersenneの論文を分析した結果、”grosseur”は明らかに”bulk”を意味しているのだ。その言葉が「直径」を意味しているのか、それとも「断面積」を指しているのかははっきりしない。もしBrossardが「直径」を意味していたのならば、G線の張力はD線のそれよりも78%大きくなり、D線もA線よりも78%大きくなっていたであろう。これは、我々か知っているいかなるヴァイオリンにも当てはまらない。次に、もし彼が「断面積」を意味していたなら、それは次に述べる事柄と一致するのだ。等しい張力を持つような弦の種類の直径は、純ガット弦で3:2の関係となる。しかし断面積の関係は9:4
(2.25倍)となる。すなわち2倍強であり、先ほどの話にちょうど当てはまる。
Leopold Morzart (1756)はヴァイオリンの弦の張力について、明らかに等張力の法則を支持していた。そして音楽家達が確認できるように、弦に同じ重りをつけ、その音の考察を行った。Leopold
MozartがHaganauerに1764年11月27日にあてた手紙によると、ロンドンとパリのヴァイオリンは非常に強い弦を張っていて、E線に弱点がある(おそらく張力において)、と書かれているのだ。この事は「等張力の法則」が、これらの地域にもおよんでいた証明である。しかしイタリア、ドイツ、オーストリアにおいてはまだであった。
Savart (1840)やDelexenne (1853)らは、ヴァイオリンの弦に「等張力」を指定していた。また我々の知る文献の中で、MauginとMaigneによって書かれたヴァイオリン製作の本でも、ヴァイオリンの弦の張力について、等しい張力にするようにと書いてある。イギリスの著者であるHuggins
(1883)とHepworth (c.1900)は、ヴァイオリンの弦の直径と、その張力との関係について考察している。
1767年ヴェネツィアの物理学者であり、アマチュア演奏家であったRicattは、ヴァイオリンの弦の張力の変化についてまず述べている。それは当時のヴェネツィアの弦についてである。彼によって、19世紀から20世紀かけてのほとんどの著者が指摘していた法則か証明されたのだ。ちなみにそれらの事を指摘した著者には、Sibire
(1806)、Spoh (1832)、Plessiard (1874)、Ruffini (1883)、Bishopp (1884)、Heron
Allen (1885)、Scbroeder (1887)、Weichold (1892)、Flesch (1925)、Cadek (1952)そしてPickering
(1985)らがいる。
幾人かの人々は、弦の最適な張力を理論的に求めた。なぜならそれは、駒の圧力とバランスを取るからだ。しかし現実にはそうもうまくいかないのである。等しい張力を持つような弦は進歩して、同じ張力であるのなら、ポジションを変えても同じ張力を持つようになった。また低音における音量が増した。それは人間の聴覚が低い周波数で落ちているのに対して、補足する力を備えたからだ。これは特に重要なことである。これに対して純ガットの低減弦は、最も低い周波数ばかり出てるが、素晴らしいことにオーバースピンの弦は基音ばかりでなく全体に渡って出る。
我々が等しいと感じる基準と、異なる大きさのヴァイオリン族の楽器を我々はヴィオラやチェロの弦長について議論するとき、それらの楽器の張力か等しいかどうかに関わりなく、この張力と長さとの法則は至るところに関係するであろう。