私がカントゥーシャ氏の工房で働いていたとき、カントゥーシャ氏の家では2匹の猫を飼っていました。詳しい名前は知りませんが、「ムティ」と「ピカ」というような呼ばれ方をしていました。ムティは灰色の一見血統の良さそうな老メス猫。ピカはどこにでもうろついているような、黒茶色と白の斑色のオス猫でした。
どこの工房のマイスターもそうですが、カントゥーシャ氏も例にもれず多忙で雑用で飛び回っており、私は工房で一人で仕事をすることが多かったです。そんな時、ピカが暇そうに工房へ入ってきて、仕事をしている私の脚に身体を擦り付けるのです。私は特に相手をするわけではありませんでしたが、ホッとする一時でありました。
ある時、いつものようにピカが入ってきました。その時、私はふと思ったのです。「"猫"と言えば"魚"だが、山の中のミッテンヴァルトの猫は魚を食べるのだろうか?」と。それで次の日、早速実行してみました。日本から持ってきた煮干しをこっそりとピカに食べさせてみたのです。そうしたら、何のことはないムシャムシャとおいしそうに食べました。私はミッテンヴァルトの猫は魚が嫌いなのかもしれないと期待していたので拍子抜けした反面、「どうだ、これまで魚なんて食べたことが無いだろう、どうだ美味しいか!」と満足でした。
さて、そうして仕事の続きをしていると、後ろで座っていたピカがいきなり、「ゴエーッ」といって吐き出したのです。ずいぶん苦しそうです。私は猫のことは全く知りませんでしたので、さっきの魚が原因で、ピカは死ぬと思い込んだのです。なぜここまで安直にピカが死ぬと思いこんだかというと、その前日にピカの具合が悪いということをカントゥーシャ氏から聞いていたからなのです。ピカは何度か吐いた後、工房を出ていってしまいました。おそらく、死に場所を探しに出ていったのでしょう。
さてどうしたら良いものか・・・・。カントゥーシャ氏に何て言ったらよいか・・・。私は仕事も手につかず、色々な言い訳をドイツ語で考えていました。ただでさえドイツ語のボキャブラリーが少ないというのに、このような微妙な内容に関しては、事前に頭の中で言葉をまとめておかなければなりません。いつもより時間がどんよりと流れました。
仕事が終わり、家に帰って妻に(この時にはもう結婚し、妻もドイツに来ていました)そのことを話しました。そうしたら、「猫って、しょっちゅうゲロゲロ吐くものだよ」と説明してくれました。「なんだ、そうだったのか」と胸を撫で下ろす反面、ピカの変わり果てた姿も目に浮かびます。そして思い浮かべたくはないけれど、カントゥーシャ氏の奥さんの怒りまくる姿も・・・・。普段は優しい人なんですけど。
翌日、いつものように工房へ行きました。カントゥーシャ氏も、奥さんも、工房の中もいつもと何も変わりはありません。私もとりあえずホッとしながら仕事に就きました。そして数時間経ったとき、なんとピカが現れました。私はいつものように特に相手にもしないで仕事をしながら、しかし心の中では「おまえ、生きていたのか!よかった、よかった!」と叫びました。ピカはそんな私の気持ちを知ってか知らぬか、いつものように私の脚に数回身体を擦り付けて、そのあと工房の椅子の上で少しの間寝た後、ふらっと出ていきました。
結論。「ミッテンヴァルトの猫は、魚を食べられるが好きではない」。
ミッテンヴァルトの猫
ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗