真の国際人とは 〜 低年齢英語教育への疑問
2006.6.22 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗
- 国際化教育
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早いもので私の娘も小学高学年になりました。最近の教育方針として、「国際化に伴う英語指導」が重視されているようで、私の子供の通う小学校にも外国人講師が来て、英会話の授業を行っています。
私はこの授業を悪いとは思いません。しかし納得いかないのは、ただでさえ授業時間の縮小が様々なところにしわ寄せしている現状において、他の重要な授業(行事も含め)を犠牲にしてまで行うべき内容なのか・・・と、疑問に思ってしまいます。私も皆さんと同様に中〜大学において英語やドイツ語などを習ってきました。しかし、私が現時点で役に立っているのは、残念ながらそこで習った内容ではなかったのです。娘達への教育も、上辺だけで空回りしないことを願っています。
- 外国語コンプレックス
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ドイツで生活を始めるまでは、私は「国際人」とは英語をバリバリと話したり、英語の本がスラスラと読める人だと思っていました。私自身英語は得意ではありませんしたし、大学の第二外国語でとっていたドイツ語は悲惨なものでした(もちろんその時には将来自分がドイツに行こうなどとは夢にも思っていませんでした)。そのようなわけで、私は外国語に対して、そして外国人に対してコンプレックスさえ感じていたのです。
これは多くの日本人において似たようなものだと思います。上記の外国語教育も、それを改善しようとして行っていると思います。しかしこれは大きな勘違いだと、今の私なら言い切ることができます。
- 真の国際人
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ドイツに住むようになってから、私の考え方はガラリと変わりました。というのは、生活しだしてから実感したのですが、周りの人たちが評価してくれるのは「言葉の流ちょうさ」ではなかったからです。英語やドイツ語をスラスラとしゃべれたからと言って、「へえ、上手だね!」くらいの会話にしか繋がらないのです。
それでは何が彼らの評価、興味の対象かというと、私の場合ですと「ヴァイオリン製作者としての技術力」であり、または「私自身の人柄」、そして彼らが持っていない「日本人としての知識や経験」だったのです。
例えば、私が片言のドイツ語しか話せなくても、トップレベルの技術を持っていればバカにされることはありませんしたし、それどころか尊敬(尊重?)され、私の片言のドイツ語や英語に耳を傾けて理解しようとしてくれました。余談になりますが、子供だけは容赦有りませんでした。カントゥーシャ氏の孫娘が幼稚園生だった頃、「アキラ、お前は話をしないが、ピエロか?」とずいぶん罵られました。
また、雑談の中でも彼らの興味の対象は「日本人・アジア人としての私」でした。例えば私がヨーロッパの歴史とかを詳しく(研究者のように深くという意味ではありません)知っていたとしても、彼らの反応は「へえ、詳しいんだね」くらいです。そして「それで日本のは? アジアのは?」となるのです。
今になって考えてみたら、日本に住む外国人で例え片言の日本語しかしゃべれなくても、仕事がバリバリできる人だったり、または凄くいい人だったりしたら、我々はそういう外国人を尊敬したり、好きになったりしますからね。「言葉なんかよりも、その人自身の魅力」です。
同じ頃、野球の野茂選手もメジャーリーグに行きましたが、彼が率先して行ったのは「英会話」ではなく、「高度な野球(ベースボール)」でした。当たり前といえば当たり前ですが、彼は野球ができたからこそ、そして野球へ姿勢が評価されたからこそ片言の英語しか話せなくても、ロサンジェルスの人々に評価されたのです。彼こそが真の国際人です。
私は英会話は意味がないといっているのではありません。もちろん話せないよりは話せた方が良いに決まっています。しかし、私が言いたいのは、「中身があれば言葉なんて後からどうにでもなる」という事です。逆に言えば、「中身がなければ、言葉が流ちょうでも何も生まれない」ということです。
- 母からの手紙
- 私と妻はドイツ滞在中に色々な人たちに親切にしてもらいました。カントゥーシャ家族はもちろんのこと、大家さんのクラーマー(コントラバス製作者)家族、町の人たち、ミュンヒェンの日本人の人達、今でも一人一人顔が浮かぶほどありがたい経験と、出会いがありました。その中の一人、ロスバッハさんという方にもお世話になっていました。彼女はミッテンヴァルト住んでいるおばあさんなのですが、私のドイツ語会話の手助けにと、毎週ドイツ語レッスンと「お茶」に誘ってくれていたのです。結婚後には妻共々、とてもよくしてもらいました。私も日本にいる母も、カントゥーシャ家族やロスバッハさんに感謝の気持ちでいっぱいでした。
ある時、私の母から「ドイツ語でありがとうって何て書くの?」という手紙があったので、私は「Danke」だという返事を書きました。それから少し経ち、いつも通りロスバッハさん宅に行ったときに、一通の国際郵便を見せられたのです。
住所にはミミズのはったような文字で住所とロスバッハさんの名前が書いていました。私の母から、ロスバッハさんへの手紙だったのです。私の母は大正14年生まれで、英語教育などとは縁遠い世代です。もちろんアルファベットさえもスラスラとは書けません。住所は私が教えた文字を、一文字一文字見よう見まねで書いたもだったのです。
ロスバッハさんは封筒から一枚の手紙を取り出して見せてくれました。そこには同じような不格好な文字で
「Danke Danke Danke」
とだけ書かれていたのです。ロスバッハさんは私に「これが本当の"手紙"なんだよ」と言ってくれました。私もそう思いました。私はこのとき初めて「人と人のつながり」というものが本当の意味で見えた気がしました。国通しの距離や言葉の壁は全くない「人の気持ち」、「気持ちを伝えようとする言葉」の本質を知りました。
本当は「国際人教育」に対しての疑問や批判についても、もっと書こうとも思っていたのですが、こうして書いている内にそれも「やぼ」かなと思いだしました。これだけで十分でしょう。
- 最後に
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私も周りの人に、心から「Danke Danke Danke」と言えるような人間になりたいです。
追記
上で「これ以上書くのもやぼかな・・・」と書きましたが、少しだけ書くことにしました。
私が渡独直後にケルンの語学学校に3ヶ月間だけ通っていたのですが、そこの先生が次のように言っていました。「日本人とタイ人はドイツ語をなかなか覚えられない」、とのことです。彼女の分析では、日本人やタイ人は会話に文法的な完璧さを求める余り、頭の中で一旦文章を完結してから話したり、手を挙げたりするということです。逆に、頭の中で文章が完結できないと、話しも手も挙げないということなのです。この事は私も思い当たるふしがあります(長年受けてきた英語教育の矛盾そのままです)。
ちなみに私が思う「国際人」として重要事項は下記の通りです
1.世界のどこでも通じる自分の芯になるもの(仕事の技術など)をきちんと持っているか?
2.具体的な目的をもっていること。
3.日本、そしてアジアを理解し、表現できるか?日本やアジアを表現できない人はバカにされます。
4.言葉の文法的なものはほとんど意味はない(もちろん言葉自体を研究したり、または微妙な言葉の表現を必要とする弁護士などは別です)。
それよりも重要なのは、身振り手振りでも良いから表現しようとする力。
5異国の価値観の違いを容認できること。
6.何事も「第六感」が重要
7.へこたれないこと。
何度も言いますが、私は英語教育自体を否定はしません。しかしそれを行うことによって、「時間的にしわ寄せが来て、できなくなっている事柄」が確実に存在するのです。大切なのはどちらか?ということです。
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