マイスターのQ&A
2012年8月14日 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗
Q:正しいヴィブラートと"痙攣"ヴィブラートとの違いは?
A:ヴィブラートには様々な技法(種類)があり、さらに音程によってもかけ方が変わったりします。従って、一概に「正しいヴィブラートと・・・」とは答えられないのですが、それを言っていては話が進まないので、今回は「基本的なヴィブラート」と、良く初心者が陥りがちの「"痙攣"のようなヴィブラート」との違いについて述べたいと思います。
ヴィブラートの原理
「ヴィブラート」とは音程に揺らぎを作り、余韻を出す表現方法です。おそらくこれまでの自然界には機械の様にピッタリ一定の周波数の音は存在しなかったので、人間は本能的に、ある程度の揺らぎのある音に安心感をおぼえるのだと思います。
弦楽器におけるヴィブラートには、基本的に「弦の張力に変化を与える方法」と「弦の長さに変化を与える方法」があります。前者はエレキギターの「チョーキング」技法などです。弦のポジションを押さえたまま、弦を指板上で横滑りさせて、弦を引っ張るのです。そうすると、音程が変化します。
一方ヴァイオリンのヴィブラート技法では、指の押さえる位置を微妙に転がすことで、弦の長さに変化を与えます。これを原理図にしたのが下記のイラストです。判りやすいように、ポジションを押さえる指を円で表現していますが、原理的にはこのようにして弦長に変化を与えているのです。
実際の演奏では下図のように、指を立てたり寝かせたりすることによって(チェロの場合には指を横に転がすので、下図とは指の向きが異なります)、弦を押さえる位置が微妙に変わり、弦長にΔLだけの変化が生まれます。これが音程(周波数)の変化に結びつくわけです。ヴァイオリンのヴィブラートの基本は(最初でも書きましたように、様々なヴィブラート技法があるので、一概には言えないのですが)、目的の音程からΔLだけ弦長を伸ばし、音を低い側に震わせます。周波数で表現すると、f ~ (f-Δf)の範囲でヴィブラートがかけられます。
私の想像ですが、人間は下降系の音程よりも上昇系の音程の方が「はまった感」を 感じます。例えば、グリッサンド奏法で高い音から音程を徐々に下げて目的の音程を出すのよりも、低い音から徐々に上げて目的の音程を鳴らす方が、より「はまった」と感じやすいのです。同様なことは、チューニング時でも言えます。ほとんどの方は、弦を一旦緩めてから、再び目的のピッチに上げているはずなのです。その方が音程が判りやすいからです。
正しいヴィブラートと"痙攣"ヴィブラートの違い
上手な演奏者のヴィブラートと、「何か違う」っていうヴィブラートがあるのは皆さんもご存じと思います。上手な演奏者がきちんと手首の力を抜いて、軽やかにコントロールしてヴィブラートをかけているのに対して、アマチュア奏者の中にはヴィブラートを強引にかけてしまっている人も多いです。このような強引なヴィブラートは"痙攣"のようなヴィブラートになっているのです。今回はこの違いについて説明してみましょう。
正しいヴィブラートは下写真のように手首、指の関節に無駄な力が入っていません。そして指板の向きに(青矢印の向きに)手の甲と指を動かします。このような向きの動きでは、楽器本体がぶれにくいのです。すなわち、弦への摩擦力が途切れることなく発音を続けることができるわけです。さらに、手首と指の関節の力が抜けているので(筋肉が緊張していない)、ヴィブラートを意識的にコントロールすることが可能になります。
一方、"痙攣"ヴィブラートでは、ヴィブラートを強引にかけようとするあまり、腕、手首、指の関節の筋肉が硬直してしまっています。こうした状態でヴィブラートをかけようとすると、手首を楽器側に突き上げてしまい、結果的に楽器全体を赤矢印のように揺らしてしまうのです。このように楽器がぶれてしまうと、弦に押し当てている弓も微妙に跳びはねてしまい、結果的に摩擦力が不規則的に途切れてしまいます。
さらに、硬直した"痙攣"のような動きからは、規則的な音程の変化(青矢印の周期性)は生まれません。このように、硬直した腕、手首、指の関節で強引にかけてしまった"痙攣"ヴィブラートからは、ヴィブラートの周期が不規則で、さらに摩擦力が途切れることによる音量の変化など、様々な「変な震え」が出てしまうのです。
考察
何度も書きますが、ヴィブラートには様々な種類がありますので、単純に「これが正しくて、これは間違い」とは言えません。例えば上記の"痙攣"ヴィブラートも、非常に高いポジションのヴィブラート奏法には利用することもあります。従って、今回の話はあくまでも「ヴィブラートの基本原理」程度の話にとどめてください。
今回の実験で、「コントロールされた正しいヴィブラート」と、「"痙攣"ヴィブラート」の音の時間変化量を、スペクトログラムで効果的に表記できないものかと試したのですが、私の機材ではFFT解析の精度がヴィブラートの変化量と変化時間に追いつかずに、今回は音響測定グラフによる周波数変化量の考察は断念しました。ヴィブラートは、耳で聴く分には大胆で大きな変化に聞こえるのですが、実際に測定してみるとその繊細さにあらためて感心してしまいます。
下記スペクトログラム表示によって、ヴィブラートの周波数の変化量までは判りませんが、音量の変化についてはある程度見えますので、一応掲載しておきます。ヴィブラート無しでの演奏(約1秒間)
正しいヴィブラートでの演奏(約1秒間)
"痙攣"ヴィブラートでの演奏(約1秒間) 一番上の「ヴィブラート無し」のグラフでは、時間軸に対して音がほぼ一定に出ていることが判ります。しかしそれに対して「ヴィブラート有り」と「痙攣ビブラート」では、時間軸に対しての色の規則的な変化があることが判ります。これは音量の変化を表しています。このグラフから、ヴィブラートの「音の揺れ」の特性には、「周波数の変化」だけでなく「音量の変化」もあって、それらが合わさって「ヴィブラート」を構成しているとういうことが判りました。
この「ビブラートに奏法に伴う音量の変化」がなぜ起こるのか、まだ確証はありませんが次の二つのことが考えられます。一つめは、ヴィブラート奏法時に楽器がかすかに揺れてしまい、わずかに弓が浮いてしまって摩擦力に変化が生じて、結果的に音量の変化となるという仮説です。もう一つは、ヴィブラート奏法によって周波数の急激な変化が生じることによって、弦をドライブしていた摩擦のリズムに矛盾が生じて、摩擦力が途切れてしまい、結果的に音量の変化に結びついてしまうという仮説です。
最後は、「正しいヴィブラート」と「"痙攣"ヴィブラート」のグラフの違いについてです。両者を見比べると、"痙攣"ヴィブラートの方が色の変化にムラがあるということがわかります。さらに、"痙攣"ヴィブラートグラフの右側付近(開始から約0.13秒後くらい)では倍音に乱れが生じています。これは楽器が大きくぶれてしまったために、摩擦力に大きな変動があった「雑音」といってもよいでしょう。その他にも"痙攣"ヴィブラートでは高倍音において音が細かく途切れてしまっていることも見て取れます。これも楽器の細かなぶれが摩擦力の連続性を阻害し、結果として音のかすれ(または音色の乱れ)として現れていると考えられます。
まとめ
正しいヴィブラート
・手首、指、腕の力が抜けていてリラックスした運動により、規則的な音程変化のヴィブラートとなっています。
・目的の音程から低い方にヴィブラートがかかるので、音程感のある音になります。
・楽器がぶれないので、倍音の乱れの少ない綺麗な音を出すことができます。
"痙攣"ヴィブラート
・強引にヴィブラートをかけようとするあまり、手首、指、腕の筋肉が硬直してしまい、リズミカルなヴィブラートとなりません。
・楽器がぶれてしまうため、どうしても雑音の多い音になってしまいます。
・目的の音程に対して高いピッチの方、または低いピッチの方にランダムに音がぶれるので、うわずったような、音程感のない音になってしまいがちです。
・筋肉が硬直してしまっているので、演奏が疲れやすくなったり、身体を痛めてしまう可能性が高くなります。
今回の実験で、周波数変化の測定の難しさと、さらにそれをいとも簡単にとらえることのできる人間の聴覚の素晴らしさにあらためて感心しました。さらに実験をする上で、「一定の音で演奏する」「一定のヴィブラート」「意図的に"痙攣"ヴィブラートを表現する」などという、演奏の基本技術の難しさを痛感しました。
「周波数変化量」に関しては、別の測定アイデアができたら、その時に補足したいと思っております。
追加実験
上記レポートを書いた後も、「ヴィブラートによる周波数の変動」グラフを測定できないものかと試行錯誤していましたが、FFT測定のサンプリング周波数を4,000Hzまで下げて3倍音までの測定に割り切ることで、ある程度の「周波数変動」のグラフを表現することができましたので追加掲載しておきます。
正しいヴィブラートでの演奏(約2秒間)
"痙攣"ヴィブラートでの演奏(約2秒間) 上の2つのグラフにおいて、ヴィブラートによる周波数が細かく変動していることがわかります。注意深く見ると、「正しいヴィブラート」の2倍音と3倍音が規則的な波になっているのに対して、「痙攣ヴィブラート」の特に3倍音では波の振幅が少し小さく、さらに一定ではないようにも見えます(もっとも、このグラフだけでそれを言い切ることは危険かもしれませんが)。
さらに、「痙攣ヴィブラートの後半部分で2カ所、音の乱れが生じていることがわかります。縦に青色の2つの模様が見える部分がそうです。これは楽器がぶれたことによって摩擦力に変化が生じて雑音が出てしまった部分と考えられます。