私はドイツから帰国してすぐから(正確に言えば、さらに前の東京ヴァイオリン製作学校在校の時のパソコン通信時代からですが)、ホームページやブログで弦楽器界におけるいい加減な情報に対して様々な主張をしてきました。もう20年にもなります。

 自分自身、「大して得にもならないことを、それどころか業界に敵を作ってしまう事をよくもまあ頑張って主張し続けてきたものだなあ」と感慨深いです。また一方で、やりたい事の半分も出来ていない焦りもあります。

 私がこの20年間で書いてきた内容は、どれも重要な事です。それらの内容に順位は無いと思っています。しかし、今思い浮かぶ範囲で、あえて自分でいくつかをピックアップしてみました。

・楽器の性能の要素
 私のQ&Aの一番最初に書いた事です。楽器の「複雑さや難しさ」を単純な「要素」に分ける事で、理解をしやすくするという、科学では当たり前の手法です。

・ストラディヴァリの秘密とは~ヴァイオリンは四次元で考えるべき
 何てことはない、ただ単に技術的にとても優れているのです。それに「時代」という時間軸要素が絡み合っているだけです。これは絵画における技法と現代における評価(価値)と全く同じです。すなわち現在時点における「物(三次元)」だけでなく、時間軸を含めた四次元で考察すべきなのです。

・楽器は増幅器ではなく、エネルギー変換装置
 書いたその時には「ああ、ついに私の工房の秘伝を公表してしまった!」と思ったけれど、誰からの反応も無かった。

・インターネット上の情報はゴミだ
 インターネット検索とは「自分自身の肯定」でしかありません。

・弓の性能の理論
 明快です。ここまで言い切った人がこれまでいたでしょうか!自画自賛!

・演奏とは芸術ではない
 ”それでは「演奏」とは何か? それは聴いている人(もっと正確に言えば、音を聴いている生物)の生理的現象を引き出す操作なのです。そして、その引き出された生理的現象を、聴いている人が、自分の観念に照らし合わせて「芸術」と例えているだけなのです。すなわち、「芸術」とは演奏する側にあるのではなく、聴いている人側に存在する虚像なのです。”

 音楽業界(得に演奏者)からの総スカンを覚悟の上での主張です。自分で言うのも何ですが、勇気のいる発言です。

・音楽界はスポーツ界を見習うべき
 スポーツ界も以前は「根性論」でしたが、現代スポーツにおいては根性論だけでは通用しません。スポーツ界に「スポーツ科学」という言葉があるように、音楽界にも「音楽科学」とか「演奏科学」という言葉が浸透するくらいでなければならないのです。

・「究極の音」とは「遠足のおにぎり」
 私は日々、製作や調整の技術を追求して、良い音の楽器を作り上げようと努力しています。しかし、それと矛盾するようですが、「究極の音」というものが存在するわけではないのです。「究極の音」とは「遠足のおにぎり」とおなじです。
「遠足のおにぎり」に、みなさん、数十年経った今でも何らかの「素晴らしい味」とか「想い出」を感じると思います。場合によっては「ほろ苦い味」かもしれません。いずれにせよすなわち、おにぎり側の「味」だけの問題ではないのです。「遠足の疲れの後のお弁当」とか「友達との和気藹々した雰囲気」、「山の上からの光景」、「青春の一頁の時期」、等々様々な要因が「味」を形成するのです。「音」も同じです。自分の普段の行動が「良い音」をつくり出します。

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