少し前に「『感覚』は自分をいくらでもごまかすことができる」という内容の記事を書きました。今回はその続きを書きます。

 「感覚」とはすなわち「自分自身の積み重ねてきたプライド」とも言えるのです。プロの演奏者や上手なアマチュア演奏者はもちろん、一生懸命日々の練習を行っている初級者にだって、プライド(自分自身が積み上げてきた大切なもの)はあるのです。

 そして人間は本能的に自分自身を守ろうとする本能が働きます。だから、なかなか人の言うことを受け入れることができないのです。逆の事も言えて、凄い人って、人の言うことに耳を傾けて、そしてそれを受け入れることができる人なのです(そのためには自分を否定する勇気が不可欠なのです)。

 さて、「自分をごまかすことができる」とは、別の言い方をすれば「自分を安心させる事ができる・・」とも言えます。その根拠として「感覚」という概念を祭り上げるのです。楽器購入や調整においても、このような根拠のない「安心材料」は沢山あります。

 一番よく見かけるのは、性能が判らない人に限って「ラベル」「製作者」「価格」「製作国」などに拘ります。安心できるのでしょう。目に見える判断材料って、誰にでも見えますから、人を説得しやすいのです。そして自分自身をも説得しやすいのです。

 調整においても似たような「安心材料」があります。それは高級部品を装着したり高級弦を張ったり。装着すれば、それで性能が出ると思い込んでいるのです。もちろん、本人は「感覚的に」満足しているのです。部品を適当に付けたからって、まともな音が出るわけありません。ある意味「オカルト的な調整(それで満足を感じてしまうので)」とも言えます。
 私の「科学的理にかなった総合的な調整」と相反する調整として、究極のオカルト的調整がありました。それはテールピースの裏側に音の良くなるシール(文字だか記号が書かれていました)を貼るという調整です。もちろん本人は満足していたようです。

 このように、「感覚」って、かなりいい加減なものなのです。その時は満足した気になれるのです。なぜなら、本質が判っていない人は、または霧の中で一生懸命何かを探している人は、自分自身への安心材料を求めているだけだからなのです。だから掴めるものだったら何でも良いので、それを「良い感覚」として理解しようとするのです。たちが悪いことに、それは高価なほど、怪しいほど、説得力を感じるのです。

 趣味だから自分が良いと感じるのだったら何でもありという考え方も一理あります。しかし、多くの方は時間が経って冷静になったときに、気づいてしまうのです。「ああ、失敗した」と。だから最初から自分の感覚等は信用せずに、「理」とか「筋」とかを勉強すべきなのです。

 弦楽器界は遅れています。スポーツ界を見習うべきです。もっと「頭」を(も)使うべきなのです。

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