私の作った楽器や、私の工房で販売した楽器をつかっているお客様から「とても満足しています」というような感想をいただくのですが、「なぜそのような良い楽器と巡り会えたのか」、または「なぜそのそのような良い楽器を一瞬で見極めることができたのか」というと、それらのお客様のほとんどは、その以前に私の工房で良い弓を購入して、それで「理にかなった演奏(物理運動)」をしていたからなのです。
私は弓の製作者ではありません。ほんとうは「良い楽器の音」について語りたいのです。しかし、そのためには結局のところ、行き着くところは「『本当の意味での』性能の良い弓」の話になるのです。
なぜか?それは音楽の大元となっているものは精神論(または感情論)ではなく、物理の法則だからです。これは何も弦楽器演奏だけの話ではなく、スポーツなどにも全く同じようにあてはまります。
「理にかなった」とは何か?「理」とは何に対しての「理」なのか? ・・・ポイントはそこなのです。
関連記事:
- 行き着くところは、最終的には「人」の話しなのです
- 結局は弓の性能の話しになってしまうのです
- 逆に、良い楽器とは、良い弓の本当の意味を実感できるのです
- 手指のアルコールスプレー消毒は、楽器から十分離れたところで
- なかなか信用してもらえない