オイストラフ等巨匠のレコードジャケットの解説を読んでいると、希ではありますが使用楽器の詳細データが書かれていることもあります。それらを見ると、ストラディヴァリでも結構買い替えていたり、持ち替えていたりしているのです(写真に写っている楽器の杢目から推測することもあります)。

 もしもストラディヴァリが「最高」ならば、そんなに楽器を変えることはしないはずです。

 それどころか、あるDVDの中で、ある巨匠が「オイストラフの使っているストラディヴァリは音が良くない」とまで明言しているのです。具体的にどのストラディヴァリなのか迄は言及していませんが、ストラディヴァリだからといって「最高」とは言えないのです。

 仮にストラディヴァリが「最高」だとしたら、矛と盾の論理で、「あるストラディヴァリと別のストラディヴァリはどちらが優れているのか?」という矛盾が出てきてしまいます。

 そして、もしもストラディヴァリが最高の楽器であったとしたら、グァルネリなどの別の楽器を使っている演奏家は二流演奏家になってしまうのです。そんなわけがありません。

 すなわち、ストラディヴァリにも色々あって(数百も存在するのですから)、ストラディヴァリだからといって良いとは言い切れないのです。

 それではなぜ、いまだに多くの演奏家(特に若い演奏家ほど)がストラディヴァリをありがたがって使っているのかというと、それはストラディヴァリが「最高と”されている”」からです。商品付加価値的に「最高」とされているのです。「最高の楽器を使っている、私って凄いでしょう?」って目的で競争のように求められ、これほどまでに「ストラディヴァリ」という言葉が一人歩きしてしまっているのが現状です。

 「裸の王様」の話と同じで、王様に「服を着ていませんよ!」って忠告するのは野暮というものです。

 聴く側だって、本当に良い音(音響)が判っている人、求めている人はそうそういません。多くの方は「権威(評価?)」を聴きに行っているのです。
 私も、例えば奈良県の博物館とかに行ったとき、「国宝」と書かれた仏像の前では立ち止まるくせに、何も書かれていない仏像はスルーしたりしています。

 

 それでは「ストラディヴァリ」の実際の性能はどうなのか? 
 本物であれば(怪しいのも多いのです)、商品価値的には「素晴らしい」楽器です。しかし、楽器の音響的には、それ以外の素晴らしい製作者の楽器と特別大きく変わることは無い、素晴らしい楽器の一つでしかないと、私はそう理解しています。

 もちろん、誰がどう考えようと、自由です。

 

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