このブログの短い文章で書ききれるような浅い内容ではないので、ほんの一側面だけの説明になりますが、「演奏」は芸術ではありません。

 この辺りから既に勘違いしている人がとても多いのです。

 それでは「演奏」とは何か? それは聴いている人(もっと正確に言えば、音を聴いている生物)の生理的反応を引き出す操作なのです。そして、その引き出された生理的現象を、聴いている人が、自分の観念に照らし合わせて「芸術」と例えているだけなのです。

 すなわち、「芸術」とは演奏する側にあるのではなく、聴いている人側に存在する虚像なのです(誤解しないでください、悪く言っているわけではありません)。

 それでは弾いている側に存在する「演奏」の本質は何かと言えば「職人技」であり、または「曲芸」なのです。そしてその「演奏の職人技」と聴いている側の「芸術」とを結びつけている唯一の媒体が「物理(科学)の法則」なのです。

 「演奏の職人技」と聴いている側が感じ取る「芸術」との間に、どのような仕組みがあるのか? それは落語に例えられます。落語とは、単に思いつきで面白いことを言って客を笑わせれば良いというものではありません。客を笑わせるための「計画性(仕組み)」があるのです。「落ち」に向かっての種を計画的にまいているのです。そしてさらに、それを噺の職人技で完璧に実行しているのです。

 演奏と落語とはとても似ています。そして落語の名人と、演奏の名人ともとても似ています。落語の名人が、「自分は芸術家だ」と言うでしょうか? おそらく「私は噺家で、落語の技を追求しているだけ」としか言わないのではないでしょうか? しかし聴いている我々は、その中に芸術を見ることが出来ます。音楽も本質は同じはずなのです。

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