先日、ある若い演奏者の方がカントゥーシャ作のヴァイオリンを購入してくださりました。この方、少し前に私のお勧めする弓を購入してくださっていて、「演奏の物理的な理」というものを実感してくださったそうなのです。

 「演奏の物理的な理」というものが何なのか? 残念ながらプロの演奏者ほど知りません。なぜならそのような教育が日本の音楽教育の場には存在しないからです。そして、非科学的な音楽教育を受けてきた人ほど、そのそうな新しい考え方の内容を知ろうとすることを拒絶しがちです。なぜならばプロとしてのプライドがそうさせてしまうからです。特に男性に多い傾向にあります。

 ところがこの男性演奏家の素晴らしいところは、素直に「自分は知らない」と言い切れる事なのです。だから人に(私に)素直に尋ねることが出来たのです。

 私の工房にて弓を購入された方ならこの意味が判っていただけると思いますが、真の意味での性能の良い弓で演奏すると、弓の「スピード」成分では無くて「圧力」成分で音を出す事が出来るようになります。この運動が、これまでの長年の練習では原理的に、手に入れられなかった運動なのです。これは物理的な話であって、演奏の上手さとは全く別物です。

 さてこのように、良い弓を購入する事で、演奏がガラリと変わり、それによって良い楽器の楽器の意味も見えてくるのです。それでカントゥーシャ作のヴァイオリンの購入へと至ったのだと思います。

 まだ購入されて間がありませんが、「・・自分の表現がこんなに多彩だったのかと驚いています。」との感想を頂きました。

 良い道具(弓や楽器」を手に入れないで、どんなに長年、一生懸命の練習を行っても、間違った方向へと進むだけなのです。すなわち人生の貴重な時間の無駄遣いです。

 余談になりますが、その方がこれまで使っていた古い弓や古い楽器(偉い先生の紹介らしいです)は、おそらく私から購入した弓や、カントゥーシャ作の楽器よりもはるかに高いのではないかと想像します。こういう話は、”あるある”です。

 

 それで本題ですが、こういう良い楽器の在庫があるときにも、試奏希望者って、毎回ほぼゼロなのです。そこまで私の主張している内容って、信用できないでしょうか?

 信用されないついでに、何度でも書きます。
「演奏とは物理的根拠のもとの”運動”で有り、それはスポーツと基本的に一緒です」

 演奏とは芸術ではありません。芸術とは聴く側の話であって、弾く側の話ではないからです。ここを勘違いしてしまうと、思い込めば(ナルシストになれば)何でもありになってしまいます。

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